S. Tachibana のすべての投稿

ジンバブエなんて関係ない、無作為の農村国家日本

 金を出す、口を出す、人を出す、手を出す。――国際政治などの場では、概ね、4つの「出し」がある。

 普通の国なら、なるべく、金を出さずに(最小限に)、口を出し、人を出し、手を出すわけだ。しかし、日本は、金しか出さない、と、まったく奇妙な国だ。

 アフリカ戦略重視といいつつも、ジンバブエはまさに折り返し地点に差し掛かっているのではないか。なのに無作為のままだ。私が総理なら、特使あるいはロビイストをジンバブエに急派するが・・・。政権交替は何よりのチャンスなのに。

 日本列島から離れると、国民の関心が急激に低下する。距離が離れれば離れるほど関心が薄れる。「桜前線」や「台風上陸」がトップニュースになるような農村国家だ。何も言えない。

グルメのグルヌイユ、蛙食の自画自賛蛙雑論

 私は蛙料理が大好きだ。本来ならば、フランス旅行にでも行って存分に楽しむべきだが、なかなかいけないので、中華料理で我慢する。いや、中華の蛙料理も十分旨いのだ。

 先日の上海近郊の松江出張の際、5回の夕食中2度も蛙を食べた。「牛蛙」という。松江は田舎のせいか、蛙が激太、肉付きがよろしいこと。蛙しゃぶしゃぶだったり、四川風激辛スープ付き蛙料理だったり、どれも素晴らしい。絶賛に値する。そして何よりも安い。

 英国人がフランス人を馬鹿にするときに、「フロッグ」という言葉を使う。フロッグとは蛙のこと、蛙食文化のフランス人のどこが悪いだろうか。まあ、私も同類ということだ。しかし、たとえどんなに馬鹿にされても、私は蛙を食べるのを決してやめない。

 フランスでは、蛙のことをグルヌイユ(grenouille)という。中華は頭を除く蛙のすべてを食すが、フランス料理の場合、どうやらもも肉(Cuisse de grenouille)しか食べないようだ。体も結構うまいので、食べればいいのにと考える私は、フランス人にも馬鹿にされそうだ。

 それはどうでもいい。蛙肉は何が旨いかと言うと、脂肪分が少なく、いや、ほとんどないじゃないかな。これは牛肉や豚肉と比べられないほど淡泊で、もしや高タンパク低脂肪食材としてダイエットに向いているのではないかと。ここまでいったら、読者の皆さんにも馬鹿にされるだろう。都合のいいことを言うにもほどがあるって。失礼しました。

 蛙って美味しいですよ。さあ、是非召し上がれ!

中国人による中国人のための中国人の管理、セミナー開催

 中国人による中国人のための中国人の管理――。

 ヒトの管理、その根底にあるのは文化や国民性、価値観という基盤である。この基盤を軽視したあらゆる理念や管理モデル
も通用せず、失敗を喫する。われわれ日本企業や日本人が善や正、あるいは美としてきた概念を一度ゼロベースに戻し、冷徹な視線で、中国に根ざした中国式の人事組織管理の理念やモデルを注視してみませんか。

 本セミナーは複数の中国企業の事例を取り上げ、その本質や原理を徹底解明し、日系企業に参考となる方向性を示していきたい。11月27日、上海でセミナーを開催する、「秘密徹底解明、中国企業に学ぶ人事組織管理の必勝法」

<予定主要内容>
 ● ある日系企業中国人従業員の本音
 ● 中国人従業員は強いリーダーを尊敬する
 ● 会議に携帯持ち込んだ副総裁も懲戒解雇する恒大
 ● 大晦日に経営幹部クビ切り、タブーに挑むアリババ
 ● トップダウン型業績評価指標はなぜ重要か?
 ● 華為は34歳で線引きして処遇を決めているのか?
 ● 淘汰しない「下位淘汰制」の真実と効用
 ● 辞職者にはなぜ法定外補償金を支給するのか?
 ● 管理職ポストの非属人性と任期制度とは?
 ● 土着性の強い中国人従業員を転勤させる方法
 ● 功労賞なき永年勤続者、仕事なければ会社を去れ!
 ● 会社を辞めても路頭に迷わない真の人材
 ● 徹底分析、京東の人事組織鉄則14カ条
 ● 徹底分析、海爾「戦略・組織・賃金」3大原則
 ● 日系企業は何を必要としているのか?

交流会は時間の無駄、売り手と買い手のミスマッチ

 私はここ数年、いわゆる異業種交流会といった会合にはほとんど出ていない。時間の無駄だ。

 理由はたった1つ。出席者のほとんどが商品やサービスを売りたがっている人たちだからだ。乾杯の音頭が終わり、しばらく飲み食いすると、自己紹介が始まる。

 主催者の要求に従って、参加者が一人ずつ立ち上がって、名前や会社名、仕事の内容、アピールしたい内容(売りたい商品やサービスなど)を一通りしゃべって、人数が多ければ、一巡したところで終盤に差し掛かったりすることもしばしば。

 マッチングなら、均等に売り手と買い手を揃えなければならない。しかし、そうではない。みんな売りたがっているのだから、買い手不在の交流会では意味があるのか。

 いまの時代、何か買いたい、仕入れたいときに、飲み会よりもまずネット検索だろう。たまたま交流会で出会った売り手は必ずしもベストマッチングという保障はどこにもない。

 人脈だって、交流会以外に作れるチャンスがいっぱいある。会いたい人がいれば、直接に連絡を取って一対一の会食に誘ったほうがビジネスの成功率がよほど高いのではないだろうか。

 といっても、私はすべての会合に参加しないわけではない。「美食会」や「政治勉強会」といった特定の目的がある会合には参加しているし、また主催もしている。

「貴族過剰」と「奴隷不足」、日本社会の本質的問題

 日本の現今の人手不足は、正確に言うと「奴隷不足」だ。さらに正確に言うと、「貴族過剰」に起因する「奴隷不足」なのだ。

 正社員たる「貴族制度」の生産性が限りなく低下している。すると、奴隷の不足が目立って、問題になる。だったら売り手市場になって奴隷の労賃がどんどん上がるはずだが、それは実際に上がっていない。組織としての生産性が低いうえ、市場の競争が激化し、多量の貴族の既得利益を維持するためにも、そう簡単に奴隷の労賃を上げられない。

 問題はここ。貴族の選抜と振り落としが必要なのだ。貴族に適していない人間を排出し、下層階級や奴隷に転落してもらうことだ。この均衡化作業は、階級間の行き来を可能にする流動性が必要だ。つまり、仕組みの改変が欠かせない。しかし、いまの日本社会はこの仕組みの変更に準備ができていないし、基盤も不在である。

 欠格の正社員を一方的に解雇できる仕組みだ。昨今、非正規雇用労働者の問題は提示されたが、その解決法としては単純に非正規雇用労働者の正社員化では決してない。ただでさえ、「貴族過剰」の日本は、1憶総貴族化すれば、崩壊する以外に道が残されていない。

 正規雇用と非正規雇用、つまり貴族と奴隷の双方向流動性が必要なのだ。これが今の日本社会、労働市場の本質的な問題だ。

市場の捉え方、キャラバンの遊牧性に価値を見出す

 中国市場やら日本市場やら、市場の属地性よりも、私は属人的に捉えている。

 以前、中国で創業したとき、「中国ビジネスコンサルタント」という肩書を私は、物凄く嫌っていた。講演会でこういう肩書で紹介されても、すぐに訂正するくらいアレルギー性だった。

 私はクライアント企業について動く。そしてクライアント企業もその顧客にくっついて動くべきだ。中国を捨てるべきときは、躊躇なくそう助言する。

 私は、属地的な愛着はまったくない。ベトナムもまた然り。時期が来たら、次のフロンティアへ移動する。キャラバンのような遊牧性に価値を見出す。

 そういう意味で属地的な農耕社会には親和感をもたない。時は狩猟採集社会への回帰、そういった部分もじわじわ出始めているのではないかと、私は直観する。

ワークシェアリング国家の末路、日本一時帰国雑感

 久々の日本帰国。印象はといえば、まず、物価は不当に抑えつけられ過ぎていることだ。「Price under Value」も多々ある。

 これはもはや単なるデフレとかではない。デフレとは、超過供給と共に、物価水準が低下し、雇用や生産の縮小が生じ、景気後退が起ることだ。しかし、いまの日本は、雇用だけは過剰しており、畸形児と化している。

 私がコンサル業務で接している多くの企業においても、労働生産性を腫れ物のように触れようとしない。特に1人あたりの労働生産性について、雇用の是非という議論そのものがタブー化されている。

 3人でできる仕事を5人でやっているのだから、みんな給料が安くならざるを得ない。するとみんな消費したがらない。倹約に徹する。消費低迷がさらに物価水準を引き下げ、値下げ競争を激化させる。全体的なパイが小さくなればなるほど、その5人の賃金原資がさらに委縮する。どんどん悪循環に陥る。

 その5人中一番生産性の低い1人や2人を解雇すれば、問題がだいぶ緩和、ないし解消できる。たが、日本社会ではその議論すらできない。解雇のできない企業は当然将来に不安がいっぱいだ。その長期的不安に備えて、内部留保を積み上げてリスクヘッジする。それは一般の家庭にも通じる。

 将来に不安のある家庭は消費せず、懸命に貯蓄に走る。たとえ金利ゼロでも貯蓄する。もし、企業内部留保に課税するのならば、個人・一般家庭にも預金税・現金保有税を課するべきだろう。一方的に企業の内部留保を批判しても問題は解決しない。

 正社員の解雇自由化。これは避けて通れない道だ。法律的には、労働基準法ではほぼ解雇自由の原則になっているものの、判例法を中心に「解雇権濫用法理」が構築されている。それはおかしなこと。企業って、解雇権を濫用して良い社員を解雇して得するか?

 いまの日本は国全体、ワークシェアリング国家になっている。一時帰国して「爆買い」「爆食い」するには都合が良いが、心底からはまったく喜べない。

案内係溢れる日本、親切が裏目に出るとき

 長い海外生活から久しぶりに日本に帰ると、やっぱり日本はいいなあと思う側面もあれば、違和感を抱く場面も多々ある。

 「案内係」がやたら多いことに、私は違和感を抱く。諸種の公共施設から商業店舗まで、どこへ行っても多くの案内係が活躍している。「ご案内します」という日本語自体も基本的にポジティブな表現として捉えられているが、では、それが100%ポジティブなのだろうか。

 人間が親切にされ続けていると、どうしても「性善説」的な世界観が身に付く。案内のないところや、案内不足のところは、「不親切」の異常値として排除される。逆に親切を装った悪にやられやすくなるのも、親切の常態化による悪への認識・防御抗体の喪失にほかならない。

 案内係は実に親切である。聞くどころか、少しでも戸惑う様子があれば、すぐに駆けつけ、いろいろと説明してくれる。そのうち、情報がただだという固定観念が日本人の頭の中に固定化する。

 情報がただでも、情報を伝える案内係は給料をちゃんともらっているのだ。その給料は商品代金ないし税金といった様々な形になり、いずれ消費者や国民に跳ね返ってくる。行き届いたサービスと低料金・低税金との両立ができないことに気付かない日本人も多い。

 行き届いたサービスは、善である。低料金や低税金も、善である。しかし、善と善が相容れない場面を認識しないといけない。そもそも世の中を善と悪の単純対極化することは、非常に幼稚であって、物事の複眼的視点の欠如が日本人の普遍的な弱点といえよう。

 案内係に頼らず、主体性をもって情報を仕入れ、処理し、判断し、行動する消費者や国民が増えれば増えるほど、市場や国家の成熟化につながる。さらに人的資源の配置の適正化、労働生産性の向上によって、確実に多くの案内係が不要となり、労働市場から排除される。

 これが一時的に失業という形となり、負の現象化するかもしれないが、これを乗り越えられるかどうかが肝心だ。単純な案内業務を超越して、より高次の価値を創り出せるかどうかだ。今の日本を見る限り、なかなか難しいような気がする。

生保手続苦難記@大阪某N生命支店

 大阪出張の主たる目的は、生命保険料の支払いクレジットカードの変更手続のためだ。

 先日のブログにも書いたとおり、日本で加入している生命保険の保険料自動引き落とし用クレジットカードを変更しようとN生命に連絡したら、「ご本人様のご来店が必要だ」と言われた。なぜオンラインでできないのかと聞いたら、実物のカードを使って店頭のPOSでデータを読み取らないとできない、と。

 まったく前近代的な話だ。とはいえ、やはり店頭へ行かざるを得ない。そのためにわざわざ航空券を買って、大阪出張を予定に入れたのだった。せっかく店頭へ行くので、事前に保険の全体的見直しを行った。そこで、役に立っていない、これからも役に立たないと思われるある特約の存在に気付く。特約もこの際、キャンセルだ。

 N生命の大阪某支店の店頭に行き、一通り手続を依頼すると、40代の女性保険外務員がやや堅い表情で接してくれた。それはそうだ。彼女にとって全然プラスにならない話なのだから、致し方ない。で、手続を待っている間に突然彼女が豹変したかのように笑みを浮かべた。

 外務員「FXなど、ご興味ございませんか」
 立花 「特に興味ありません。海外在住ですし」
 外務員「外貨積立の新商品をご案内させていただきます。○×○×・・・」
 立花 「せっかくですが、海外在住なので、収入も外貨ですでに海外で外貨を運用してますから、結構です」
 外務員「この新商品は、非常に良い金融商品で、○×○×・・・」
 立花 「何回も申し上げてますが、我々は海外在住でわざわざ日本で外貨運用する必要がありません」
 外務員「でも、このパンフレットをご覧ください。運用に関しては○×○×・・・」
 立花 「それは要りません。手続を早くしてください」

 やっと、手続が終わろうとした。

 外務員「手続の書類となりますが、こちらの証券番号で間違いないでしょうか。ご確認ください」
 立花 「保険証券は持ってこなくていいといわれたので、証券番号分かりませんよ」
 外務員「でも、一応お客様にご確認いただくことになってますから、ご確認いただけませんか」
 立花 「知らないものは知らない。確認しろと言われても、できません。それよりも、御社のデータベースで調べたらいかがですか」
 外務員「はい、じゃ、見てみます。あらっ、すいません。番号やはり間違ってました、すぐ直します。もう一度書類を作り直しますので、少々お待ちください」
 立花 「・・・」(言葉が出ない)

 またまた、待たされること十数分。今回はやっと終了になる。変更された新クレジットカードを渡すと、外務員がPOS機とカードを持って戸惑う。「お客様、カードのどっちから入れればいいんでしょうか」

 もう、絶句。記入間違いで破棄となる書類も含めて、山積みの紙とにらめっこして、ようやく1時間を超える手続が終わった。電子化時代に逆行することもさておきながら、社内用の書類もすべて美しいカラー印刷になっている。コストは?

 世界に取り残される日本の金融保険業という大げさなことを言ったら、怒られるかもしれないが、すくなくともN生命の店頭で見た光景は私にとって衝撃的であった。

 私の死亡保険金をちゃんと払ってくれるのだろうか。私の死亡までに、この会社が死亡しないことを切に願っている。

五十にて河豚の味を知る夜かな、美食万歳大阪万歳

 理想的な死に方と聞かれたら、「食い倒れて死ぬ」と私が答える。「生きるために食べるのではなく、食べるために生きる」という私の人生観はやはり歪んでいるのじゃないかと、自分でもそう思う。大阪に来たら、死ぬまで食ってやるという「悲壮感」が付きまとう。お目当てはといえば、河豚以外は考えられない。

 目指すは福島駅の近くにあるふぐ料理店「あじ平」。予約しておいて良かった。19時30分過ぎの入店で満席状態。

 「河豚のうまさというものは実に断然たるものだ、と私は言い切る。これを他に比せんとしても、これに優る何物をも発見し得ないからだ。河豚のうまさというものは、明石鯛がうまいの、ビフテキがうまいのという問題とはてんで問題が違う。調子の高い海鼠やこのわたをもってきても駄目だ。すっぽんはどうだといってみても問題が違う。フランスの鴨の肝だろうが、蝸牛だろうが、比較にならない。もとより、天ぷら、鰻、寿司など問題ではない」

 と、魯山人がこう語る。河豚を食さずに大阪を後にすることはできまい。

 「五十にて 河豚の味を 知る夜かな 河豚食わぬ 奴には見せな 富士の山」小林一茶の句だ。50歳になって始めて河豚の旨さを知ると。河豚の旨さは何であろう。思うには、淡泊さのなかに隠されている「うまさ」、これを味わって感動を覚えるという、まさに芸術的な境地に到達できるかどうかの話だ。

 昔は命がけで河豚を食すというが、なるほど「食い倒れ」とは、量で倒れるか、質で倒れるか、あるいは毒で倒れるか。それは食の街、大阪ならではの醍醐味ではないだろうか。

 と、ついに私は倒れることなく、また明日も旨いものを食べ続けたい。美食万歳、大阪万歳。