「立花聡の日本と世界」カテゴリーアーカイブ

ジンバブエなんて関係ない、無作為の農村国家日本

 金を出す、口を出す、人を出す、手を出す。――国際政治などの場では、概ね、4つの「出し」がある。

 普通の国なら、なるべく、金を出さずに(最小限に)、口を出し、人を出し、手を出すわけだ。しかし、日本は、金しか出さない、と、まったく奇妙な国だ。

 アフリカ戦略重視といいつつも、ジンバブエはまさに折り返し地点に差し掛かっているのではないか。なのに無作為のままだ。私が総理なら、特使あるいはロビイストをジンバブエに急派するが・・・。政権交替は何よりのチャンスなのに。

 日本列島から離れると、国民の関心が急激に低下する。距離が離れれば離れるほど関心が薄れる。「桜前線」や「台風上陸」がトップニュースになるような農村国家だ。何も言えない。

「貴族過剰」と「奴隷不足」、日本社会の本質的問題

 日本の現今の人手不足は、正確に言うと「奴隷不足」だ。さらに正確に言うと、「貴族過剰」に起因する「奴隷不足」なのだ。

 正社員たる「貴族制度」の生産性が限りなく低下している。すると、奴隷の不足が目立って、問題になる。だったら売り手市場になって奴隷の労賃がどんどん上がるはずだが、それは実際に上がっていない。組織としての生産性が低いうえ、市場の競争が激化し、多量の貴族の既得利益を維持するためにも、そう簡単に奴隷の労賃を上げられない。

 問題はここ。貴族の選抜と振り落としが必要なのだ。貴族に適していない人間を排出し、下層階級や奴隷に転落してもらうことだ。この均衡化作業は、階級間の行き来を可能にする流動性が必要だ。つまり、仕組みの改変が欠かせない。しかし、いまの日本社会はこの仕組みの変更に準備ができていないし、基盤も不在である。

 欠格の正社員を一方的に解雇できる仕組みだ。昨今、非正規雇用労働者の問題は提示されたが、その解決法としては単純に非正規雇用労働者の正社員化では決してない。ただでさえ、「貴族過剰」の日本は、1憶総貴族化すれば、崩壊する以外に道が残されていない。

 正規雇用と非正規雇用、つまり貴族と奴隷の双方向流動性が必要なのだ。これが今の日本社会、労働市場の本質的な問題だ。

市場の捉え方、キャラバンの遊牧性に価値を見出す

 中国市場やら日本市場やら、市場の属地性よりも、私は属人的に捉えている。

 以前、中国で創業したとき、「中国ビジネスコンサルタント」という肩書を私は、物凄く嫌っていた。講演会でこういう肩書で紹介されても、すぐに訂正するくらいアレルギー性だった。

 私はクライアント企業について動く。そしてクライアント企業もその顧客にくっついて動くべきだ。中国を捨てるべきときは、躊躇なくそう助言する。

 私は、属地的な愛着はまったくない。ベトナムもまた然り。時期が来たら、次のフロンティアへ移動する。キャラバンのような遊牧性に価値を見出す。

 そういう意味で属地的な農耕社会には親和感をもたない。時は狩猟採集社会への回帰、そういった部分もじわじわ出始めているのではないかと、私は直観する。

ワークシェアリング国家の末路、日本一時帰国雑感

 久々の日本帰国。印象はといえば、まず、物価は不当に抑えつけられ過ぎていることだ。「Price under Value」も多々ある。

 これはもはや単なるデフレとかではない。デフレとは、超過供給と共に、物価水準が低下し、雇用や生産の縮小が生じ、景気後退が起ることだ。しかし、いまの日本は、雇用だけは過剰しており、畸形児と化している。

 私がコンサル業務で接している多くの企業においても、労働生産性を腫れ物のように触れようとしない。特に1人あたりの労働生産性について、雇用の是非という議論そのものがタブー化されている。

 3人でできる仕事を5人でやっているのだから、みんな給料が安くならざるを得ない。するとみんな消費したがらない。倹約に徹する。消費低迷がさらに物価水準を引き下げ、値下げ競争を激化させる。全体的なパイが小さくなればなるほど、その5人の賃金原資がさらに委縮する。どんどん悪循環に陥る。

 その5人中一番生産性の低い1人や2人を解雇すれば、問題がだいぶ緩和、ないし解消できる。たが、日本社会ではその議論すらできない。解雇のできない企業は当然将来に不安がいっぱいだ。その長期的不安に備えて、内部留保を積み上げてリスクヘッジする。それは一般の家庭にも通じる。

 将来に不安のある家庭は消費せず、懸命に貯蓄に走る。たとえ金利ゼロでも貯蓄する。もし、企業内部留保に課税するのならば、個人・一般家庭にも預金税・現金保有税を課するべきだろう。一方的に企業の内部留保を批判しても問題は解決しない。

 正社員の解雇自由化。これは避けて通れない道だ。法律的には、労働基準法ではほぼ解雇自由の原則になっているものの、判例法を中心に「解雇権濫用法理」が構築されている。それはおかしなこと。企業って、解雇権を濫用して良い社員を解雇して得するか?

 いまの日本は国全体、ワークシェアリング国家になっている。一時帰国して「爆買い」「爆食い」するには都合が良いが、心底からはまったく喜べない。

案内係溢れる日本、親切が裏目に出るとき

 長い海外生活から久しぶりに日本に帰ると、やっぱり日本はいいなあと思う側面もあれば、違和感を抱く場面も多々ある。

 「案内係」がやたら多いことに、私は違和感を抱く。諸種の公共施設から商業店舗まで、どこへ行っても多くの案内係が活躍している。「ご案内します」という日本語自体も基本的にポジティブな表現として捉えられているが、では、それが100%ポジティブなのだろうか。

 人間が親切にされ続けていると、どうしても「性善説」的な世界観が身に付く。案内のないところや、案内不足のところは、「不親切」の異常値として排除される。逆に親切を装った悪にやられやすくなるのも、親切の常態化による悪への認識・防御抗体の喪失にほかならない。

 案内係は実に親切である。聞くどころか、少しでも戸惑う様子があれば、すぐに駆けつけ、いろいろと説明してくれる。そのうち、情報がただだという固定観念が日本人の頭の中に固定化する。

 情報がただでも、情報を伝える案内係は給料をちゃんともらっているのだ。その給料は商品代金ないし税金といった様々な形になり、いずれ消費者や国民に跳ね返ってくる。行き届いたサービスと低料金・低税金との両立ができないことに気付かない日本人も多い。

 行き届いたサービスは、善である。低料金や低税金も、善である。しかし、善と善が相容れない場面を認識しないといけない。そもそも世の中を善と悪の単純対極化することは、非常に幼稚であって、物事の複眼的視点の欠如が日本人の普遍的な弱点といえよう。

 案内係に頼らず、主体性をもって情報を仕入れ、処理し、判断し、行動する消費者や国民が増えれば増えるほど、市場や国家の成熟化につながる。さらに人的資源の配置の適正化、労働生産性の向上によって、確実に多くの案内係が不要となり、労働市場から排除される。

 これが一時的に失業という形となり、負の現象化するかもしれないが、これを乗り越えられるかどうかが肝心だ。単純な案内業務を超越して、より高次の価値を創り出せるかどうかだ。今の日本を見る限り、なかなか難しいような気がする。

生保手続苦難記@大阪某N生命支店

 大阪出張の主たる目的は、生命保険料の支払いクレジットカードの変更手続のためだ。

 先日のブログにも書いたとおり、日本で加入している生命保険の保険料自動引き落とし用クレジットカードを変更しようとN生命に連絡したら、「ご本人様のご来店が必要だ」と言われた。なぜオンラインでできないのかと聞いたら、実物のカードを使って店頭のPOSでデータを読み取らないとできない、と。

 まったく前近代的な話だ。とはいえ、やはり店頭へ行かざるを得ない。そのためにわざわざ航空券を買って、大阪出張を予定に入れたのだった。せっかく店頭へ行くので、事前に保険の全体的見直しを行った。そこで、役に立っていない、これからも役に立たないと思われるある特約の存在に気付く。特約もこの際、キャンセルだ。

 N生命の大阪某支店の店頭に行き、一通り手続を依頼すると、40代の女性保険外務員がやや堅い表情で接してくれた。それはそうだ。彼女にとって全然プラスにならない話なのだから、致し方ない。で、手続を待っている間に突然彼女が豹変したかのように笑みを浮かべた。

 外務員「FXなど、ご興味ございませんか」
 立花 「特に興味ありません。海外在住ですし」
 外務員「外貨積立の新商品をご案内させていただきます。○×○×・・・」
 立花 「せっかくですが、海外在住なので、収入も外貨ですでに海外で外貨を運用してますから、結構です」
 外務員「この新商品は、非常に良い金融商品で、○×○×・・・」
 立花 「何回も申し上げてますが、我々は海外在住でわざわざ日本で外貨運用する必要がありません」
 外務員「でも、このパンフレットをご覧ください。運用に関しては○×○×・・・」
 立花 「それは要りません。手続を早くしてください」

 やっと、手続が終わろうとした。

 外務員「手続の書類となりますが、こちらの証券番号で間違いないでしょうか。ご確認ください」
 立花 「保険証券は持ってこなくていいといわれたので、証券番号分かりませんよ」
 外務員「でも、一応お客様にご確認いただくことになってますから、ご確認いただけませんか」
 立花 「知らないものは知らない。確認しろと言われても、できません。それよりも、御社のデータベースで調べたらいかがですか」
 外務員「はい、じゃ、見てみます。あらっ、すいません。番号やはり間違ってました、すぐ直します。もう一度書類を作り直しますので、少々お待ちください」
 立花 「・・・」(言葉が出ない)

 またまた、待たされること十数分。今回はやっと終了になる。変更された新クレジットカードを渡すと、外務員がPOS機とカードを持って戸惑う。「お客様、カードのどっちから入れればいいんでしょうか」

 もう、絶句。記入間違いで破棄となる書類も含めて、山積みの紙とにらめっこして、ようやく1時間を超える手続が終わった。電子化時代に逆行することもさておきながら、社内用の書類もすべて美しいカラー印刷になっている。コストは?

 世界に取り残される日本の金融保険業という大げさなことを言ったら、怒られるかもしれないが、すくなくともN生命の店頭で見た光景は私にとって衝撃的であった。

 私の死亡保険金をちゃんと払ってくれるのだろうか。私の死亡までに、この会社が死亡しないことを切に願っている。

気持ち悪い、政治家の「寄り添う」姿

 「国民に寄り添う」。これは天皇陛下のお務めとご姿勢でおられ、大変尊いものである。

 政治家には、軽々と「国民に寄り添う」などと言ってほしくない。政治家の責務は、国家国民全体利益の最大化である。「優しさ」よりも時には「厳しさ」すら求められる。

 国民にとって耳が痛いことを言わなければならないし、国民が嫌がる決断をもしなければならない。故に、政治家の「寄り添う」姿勢がいかに女々しく売名的に見える。

自助主義論者の「愚民論」、外的支配と内的支配

 私は徹頭徹尾「自己責任」の立場を貫く、自助主義の冷酷者である。

 人に援助を与えることこそ、「上からの目線」だ。援助の付与は当人の自助力を弱め、その人をダメにしてしまう、と私は考えている。私の考えを裏付ける根拠といえば、スマイルズの「自助論」の一節を引用したい。

 「外部からの援助は人間を弱くする。自分で自分を助けようとする精神こそ、その人間をいつまでも励まし元気づける。人のために良かれと思って援助の手を差し伸べても、相手はかえって自立の気持ちを失い、その必要性をも忘れるだろう。保護や抑制も度を過ぎると、役に立たない無力な人間を生み出すのがオチである」

 現代、多くの日本人は不幸を感じている。その不幸の原因には「制度悪」や「社会悪」を挙げている。

 スマイルズは、「いかに優れた制度をこしらえても、それで人間を救えるわけではない。・・・いつの時代にも人は、幸福や繁栄が自分の行動によって得られるものとは考えず、制度の力によるものだと信じたがる。だから、『法律をつくれば人間は進歩していく』などという過大評価が当たり前のようにまかり通ってきた」と指摘する。

 さらに、「われわれが『社会悪』と呼び習わしているものの大部分は、実はわれわれ自身の堕落した生活から生じる。だからいくら法律の力を借りてこの社会悪を根絶しようとしても、それはまた別な形をとって現れ、はびこって行くに違いない。国民一人ひとりの生活の状態や質が抜本的に改善されてはじめて、このような社会悪がなくなる」と痛烈な批判が続く。

 日本人には耳が痛い話だ。

 政治に対する批判、制度に対する批判をよく耳にしても、日本人自身に対する批判はあまり聞かない。日本人批判、それはさぞかし気色が悪い。偏向報道を痛烈に批判する。ではその本質とは何か。偏向報道を好む国民層がいるからこそ、偏向報道がぬくぬくと生存しているのではないか。需要があっての供給。

 日本人はいつから自己批判ができなくなったのだろうか。自己批判、自己否定そして痛みを伴う進化こそが優秀な民族の証ではないだろうか。日本人は優秀な民族だ。だからこそ、平均民度を保たなければならない。ただ、どんな優秀な民族にも愚民は存在する。福澤諭吉氏が「学問のすすめ」にこう指摘する。

 「斯る愚民を支配するには迚も道理を以て諭すべき方便なければ、唯威を以て畏すのみ。西洋の諺に愚民の上に苛き政府ありとはこの事なり。こは政府の苛きにあらず、愚民の自ら招く災いなり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり」

 福翁の「愚民論」に呼応するかのように、スマイルズがこう語る。

 「国民が優秀であれば、いくらひどい政治でもいつしか国民のレベルにまで引き上げられる。つまり、国民全体の質がその国の政治の質を決定するのだ。これは、水が低きに流れるのと同じくらい当然の論理である」

 人間には、「外的支配」と「内的支配」という2つの支配が存在する。スマイルズいわく「すべては人間自らをどう支配するかにかかっている。それに比べれば、その人が外部からどう支配されるかという点は、さほど重要な問題ではない」

 本質の洞察である。「外的支配」と「内的支配」の受容選択を決めるのが人間だ。その判断自体も、「内的支配」に由来する。換言すれば、人間自分は自分の主人公になっているかということだ。

 どんな劣悪な社会環境の下においても、気力、迫力、胆力、知力、行動力をもって、生き抜く。「内的支配」を生命力の源泉とする人格をもって、生き抜く。そして、幸福になる。

「まっとうな政治」とは?政治と経営の違い

 衆院選が終わった。大方の予想通り、自民が大勝した。ただ、ちっとも楽観できない。どう見てもダメな輩も当選している。どんな選挙民がどういうつもりで1票を入れたのだろうか、さぞかし信じがたい。

 ふと思いつくことだが、政治と経営の違いとは何か。基本的に、経営に長けても政治がうまくいくとは限らない。経営のプロ、大前研一氏もその好例。数億円の私財をなげうって選挙に出ても、惨敗。氏は後日「大前研一敗戦記」という本を書いて、「二度と政治をやらない」と言った。

 経営は人を選ぶこと。政治は人に選ばれること。それが大きな差異だ。私から見れば、経営は弱者を振り落とし、構成員の選別と排除を前提としている。どんな美辞麗句を並べる経営者でも、入社試験を課している以上、それは「選良」であって、「選強」である。

 企業は、馬鹿社員を必要としないが、国家は、馬鹿国民でも包容しないとダメなのだ。その馬鹿な愚民層が厚くなればなるほど、政治家自身がたとえ賢者であっても、馬鹿なふりをしないと当選できない。大前氏のように理性的な経営理念を駆使した選挙手法を取ったら、待っているのが落選にほかならない。

 行政改革や小さな政府が良いとする一方、完璧な行政サービスや社会保障を求める。子供の世代に借金を背負わせたくないと言いながら、増税に反対する。政治だけではない。良いサービスを求めながら、格安料金をも強要する。おかしいですよ。社会が非論理性で空転していて疲弊化している。

 非論理性を平気で持ち合わせる馬鹿な国民は決して少数ではない。こういう選挙民を前に論理的なアプローチをとれるのだろうか。

 「まっとうな政治」。最近政治の世界で流行語になっている。「まっとうな政治」とは何か。まず「まっとうな選挙民」がいなければ、「まっとうな政治家」が生まれない。「まっとうな政治家」がいなければ、「まっとうな政治」などできるはずがない。

在越日本大使館で一票投じる、有権者の責任を語れ

 10月12日(木)夕方。ハノイ出張中の私は、在ベトナム日本大使館で衆院選の一票を投じた。

 私は自民党を支持する。安倍一強は、馬鹿野党の所産。強者の弱化よりも弱者の強化。野党が本当に国家国民のために安倍政権よりも現実的でベターな政策を打ち出せたら、安倍政権は自壊する。残念ながらそんな器ではない。

 私にとって、消去法的に自民党、安倍政権しかあり得ない。

 日本国家国民のことを真剣に考え、理性の一票を投じる皆様に敬意を表し、心より感謝申し上げたい。政治家の責任を語る前にまず有権者の責任を語れ!