「立花聡の哲学と雑学」カテゴリーアーカイブ

世界一の不幸者は、不幸の原因を他者に転嫁する者

 採用面接って面白い。

 立花 「あなたは、前職を辞めた理由は?」
 応募者 「学べるものがないし、雑務ばっかりやらされるし、チャンスにも恵まれませんでした」
 立花 「なるほど。では、当社に応募する理由は?」
 応募者 「新しい分野に挑戦し、学んでいきたい」
 私 「当社も雑務をやってもらいますよ。『学べるものがない』の繰り返しだけじゃないですか。チャンスもなければ、また次の会社を探すんですか?」
 応募者 「???」

 雑務とか何か、雑務に学べるものはないだろうか。上等な仕事ができない人間に限って、雑務を馬鹿にするのだ。学び方すら知らない人間に限って、学べるものがないと馬鹿をいうのだ。チャンスがすぐにそばに転がっていても見えない人間に限って、チャンスに恵まれないと愚痴をこぼすのだ。

 学歴もなく、貧困のどん底で雑務的な仕事を見つけて、辛うじて糊口を凌ぎながら、最底辺の仕事に学び、地獄から這い上がる人たち、もっとも不運な人たちに限って、自らチャンスを作り出し、自ら世界を切り開くのだ。

 人間はある程度、その器が決まって生まれてきたのかもしれない。だが、その器をまったく改造できないわけではない。後天的に、何らかのきっかけで物事の学び方を悟った時点で、チャンスが続々と訪れてくる。チャンスを拒むことなどできないのだ。

 一方では、不運や失敗、不幸の原因を他者に転嫁する人間は、どこにいっても失敗する。世の中一番の不幸者は、不幸の原因を他者に転嫁する人間。

 他者がたとえいくら悪者だとしても、他者をいくら罵ったとしても、自分の境遇は果たしてそれで改善されるのだろうか。ちっとも役に立たない。愚痴や罵りで一時的な慰めを得られたとしても、麻薬のように一瞬にしてその快楽が去ってしまうものだ。

 来る日も来る日も、その繰り返し。世の中、不運や不幸を感じる人間が大半だ。それが公平か、それとも不公平?神様に聞くが良い。

資本主義が生んだ共産主義、権力と闘う破廉恥

 マルクスは、資本家であるエンゲルスの協力をなくして、共産主義が生まれたのだろうか。換言すれば、共産主義は資本家が労働者階級から搾取した剰余価値を元に生まれたということになる。

 今の日本を見ても類似の現象が見られる。民主主義の甘い汁を吸い、独裁による恐怖や自由喪失の危険をなくして、「権力と闘う」と豪語する破廉恥は、見るに耐え難いものだ。

 「権力と闘う」には、まず権力の独裁による恐怖と闘って、勝たなければならない。そして権力と闘っていくための自由を確保すべく、まず「権力と闘う」など公然と唱えることはしないのだ。

 本気で独裁たる権力と闘うというなら、平壌にも北京にも乗り込んで広場で叫んでみるがよい。永田町で「権力と闘う」と叫ぶほど馬鹿なこと、世の中にあるのか。無知と破廉恥、それ以外の何物でもない。

 無知から生まれた無恥は、無知よりはるかに醜悪である。

日本人相手の海外投資業者、理性的関係と進化

 海外で、日本人相手のいわゆる金融投資や不動産投資仲介業者はたくさんある。その会社の創業者や経営者にまつわる武勇伝よりも、その顧客がいかに投資で儲かったか、あるいは失敗したかという実話や事例に興味がある。残念ながら、それはあまり聞かない。

 いまの日本は大変だ。年金が減額される。将来的になくなるかもしれない。だから、自助努力で自己年金を作らないと危ない。ここまでは誰もが納得する正論。ただここからが微妙になってくる。どこそこの国の何とか案件が有望だとか。それはまだしも正論としよう。では、リスクとは何か?投資失敗した場合の最悪シナリオとは何か?

 という話になると、突然黙り込む。「おい、営業妨害だ」と、時には怒り出す。私はライバルではないし、営業妨害しても得はしない。そういっているのは、もうちょっと理性的な営業をしたほうが逆にライバルとの差別化ができるのではないかということだ。

 顧客も同じく理性的になってほしい。まずは、うまい話ばっかり聞こうとしないこと。次にリスクと聞いただけで引いてしまうのも馬鹿馬鹿しい。リスクとリターンの関係をよく吟味し、評価し、その金融商品が自分に適合するかどうかを、主体的に判断する。

 業者と顧客の間に理性的な関係ができあがると、互いに進歩し、進化する。

近い将来の労働市場、HAV形態で私も餓死するか

 10年後の労働市場を考え、未来図を描いてみると、職種は大きく3つに分類されるだろう――。

 1つ目は、「H職」。Human being、生身の人間でしかできない仕事。

 2つ目は、「A職」。AI、人工知能が代替し、機能する仕事。

 3つ目は、「V職」。Value maker、価値創出型の仕事。A職であっても、人工知能でできない付加価値を上乗せしたり、あるはA職とH職の交差混合で、人間が独自の付加価値を上乗せしたりする場面がこれに該当する。

 ただし、流動的だ。H職もV職も、動態的につねにA職の勢力拡大と浸食の恐れに怯えながら、独自価値の創出に日夜奮闘しなければならない。「安定」という言葉は、死を意味する。

 このような「HAV」形態の労働市場は、そう遠くない将来に出現するだろう。過酷な市場だが、いままで機会をもたない者に、大きな機会が訪れる時代でもある。

 ここまでいったら、じゃ、立花、お前の人事コンサルの仕事は将来どうなるんだ、という質問は出るだろう。

 それは消滅する可能性もかなりあると思う。だって、企業の雇用が縮小し、外注主力に傾いた時点で、人事労務の管理業務も大幅縮小する。

 さらに人事労務管理も、人工知能によって取って代わられる可能性も十分ある。すべての関連要素を入力した時点で、AIが最善の人事管理制度をアウトプットする。

 私の仕事は、人工知能のアウトプットのあら探しになる。それができなければ、私は餓死する。ただ、私がどんなに苦労して見付けたあらでも、それが入力された時点で、二度と出て来ないようにあらが修正される。

 このようないたちごっこが繰り返し、私(人間)の知力や体力の限界に達した時点で、私は無残にクライアントにクビを切られる。

 というのが人工知能の時代だ。Welcome to the New Era!

氷山か氷塊?ボンビーガールのマレーシア移住話

 8月29日に日本のTV番組「ボンビーガール、マレーシア移住特集」が放送されてから、私が発起人で主宰している「マレーシア移住の会」には新規参加者が急増している。
 
 「・・・(マレーシアは)物価が安いし、家賃3万円程でゴージャスなアパートに住めるし、なんか日本に住んでいるのがばかばかしくなる」「ボンビーガールを観てていつも考えているけど、本当にバンコクとかマレーシアに就職してバブリーな生活をするのもいい。考えてみようかな」

 ネットを検索したら、こういうブログ投稿もあったりする。いや、TVの宣伝効果はやはり大きい。ベトナム在住の友人は、「あれはストーリーありきの該当者募集です。少なくともベトナムの放送分は、放送後ベトナムで働きたいという問い合わせは人材紹介会社で増えたそうです」と、教えてくれた。

 まあ、人材紹介会社はだいぶ番組のおかげで商売が舞い込んだだろう。

 ベトナム編もマレーシア編も、私は直接に番組を観たわけではないので(観るつもりもない)、断定的なコメントを控えたいが、番組が取り上げた話は、やらせや作り話でない限り、真実であることは間違いないだろう。

 ただ、その真実は、氷山の一角なのか、それとも単たる氷塊の一粒かが問題だ。どれだけ代表性があるかということだ。言い換えれば、大方の人が番組に取り上げられたような事案をそのまま追体験できるか、あるいは番組事例の複製の可能性、それがどのくらいあるかということだ。

 特に海外番組の場合、現地コーディネーターのスタンスが番組の出来に決定的な役割を果たしていることも珍しくない。そこで彼らの情報ソースや知見、ないし利害関係が絡んでくると、番組の色も随分変わってきたりする。

 随分昔、私も日本のメディアの海外取材の協力で現地コーディネーターを引き受けたことがあった。現地のことについて取材クルーは基本的に何も知らない。現地コーディネーターの言いなりだった。

 こういう番組の裏事情を知った上で、番組を眺めていると、視聴者もずいぶん変わるだろう。メディアは信用できないとかいう人もいるが、「信じる」「信じない」というよりも、「懐疑」をもつことが大切だ。私の書いたこの記事にも、是非懐疑の目をもって接してほしい。

 情報氾濫の時代だ。情報そのものの価値が相対的に低下している。そのかわりに、情報の選択と処理がますます重要になる。自分自身にとってその情報は何を意味するか、その情報がもたらす潜在的リスクとは何か、そしてそこからどのような価値を生み出せるのか、この一連の論理的な思考作業が後続の結果に決定的な効用を果たす。

 情報は、諸刃の剣だ。

「みんな一緒」でなくなる日、階級社会の到来

 日本の問題。タブーを恐れずに言ってしまえば、階級社会を受け入れるかどうかの問題だ。

 格差社会の定着と正当化は、階級社会の形成なのだ。スラムの出現も容認すると。日本人は「みんな一緒」でなくなることだ。それを拒否した場合、「みんな一緒」に衰退していくのみだ。

 この話はタブーなので、政治家は死んでもいえない。「全員引き上げる」ような政治は、いまの日本ではもう無理。何党がやっても一緒。

 政治家を責めてもしかたない。彼たちは民意で糧を得る職業なのだから、民の耳が痛いことを言わないし、言えない。マスコミを責めてもしかたない。彼たちは民の妬みやルサンチマンで糧を得る職業なのだから、すべて政治が悪いと煽って食いつなぐ。

 他者を責めても、現実は何も変わらない。日本社会は、「承認欲求」「同調圧力」の塊。8割以上は洗脳された犠牲者、生きる本能すら喪失しつつある。この現実は変わらない。故に、幸せになりたければ、頼れるのは自分だけだ。現実を罵っても現実は変わらない。変える可能性があるのは、自分だけだ。

 ただ現状は厳しい。日本人の多くは本能的に心底から「みんな一緒」を求めている。農耕社会のDNA的な伝承も非難されるべきではない。格差社会や階級社会よりも、むしろ「均等貧困社会」のほうが受け入れられやすい。現にいまはそれが求められている。

 致命的なのは、資本と資源の流出。

 昔、マルクスの時代なら、資本家階級をプロレタリアートが一致団結して叩けたのだった。工場や財産を根こそぎ取り上げられた。いまはできないだろう。地球はフラットだ。資本の流出はじわじわと進む。パソコンのリターンキー1つでお金が動く時代だからだ。

 もっと怖いのが、資源(リソース)の流出だ。特に人的資源。MBAを取った友人がこう嘆く――。「日本人でMBAなんか取るのが自殺行為だ。多大な投資をしてもリターンはほとんどない。教室のなかで教わったもの何1つ、日本型組織のなかでは役に立たない。いや、睨みつけられるだけ。出世の邪魔すらなり得る」。結局、友人も活路を求めて海外へ出て行った。

 「みんな一緒」。競争を嫌う性質は、もはや現今の世界では、規格外だ。かといって、では日本は欧米並みの競争社会になったらどうだろうといえば、それはまさに日本でなくなる。自己喪失の危機と自己衰退の危機、この二項対立の解消にどのような答えが用意されているのか、私には分からない。

 私はこよなく日本を愛している。でも、なぜ日本に帰らないかというと、日本をずっと愛し続けたいからだ。富士山は登るよりも、遠くから眺めた方が美しい。一種の逃避行でもあるが・・・。

サバイバルを美徳とせよ、トリクルダウン理論の真義

 先日、日本で加入している生命保険の保険料自動引き落とし用クレジットカードを変更しようとN生命に連絡したら、「ご本人様のご来店が必要だ」と言われた。なぜオンラインでできないのかと聞いたら、実物のカードを使って店頭のPOSでデータを読み取らないとできない、と。

 海外在住の私はどうしようもないので、そのために日本行きの航空券をついに買った。馬鹿げている。こういう電子商取引の時代に、前近代的な商法ではまさに時代錯誤だ。

 日本は技術的に、これだけのことができないはずがない。簡単にできるだろう。しかし、あれもこれも出来てしまうと、人間は要らなくなる。ただでさえ、労働生産性の低い日本企業では、オンライン化や人工知能化が進むと、企業はリストラせざるを得なくなる。

 先日、北欧で見聞した現実を日本に照らしていえば、3人でやる仕事を、北欧では2人ないし1人でやっているのに対して、日本は、5人でやっている。なんで5人でやるのですかと聞いて、「そうなっているからです」「規則です」と日本人が疑いもなく答えれば、そこはもう没落の道しか開かれていない。

 日本株式会社は、ワークシェアリングしている。故に1人あたりの賃金は上がらないのだ。私は繰り返している。3人でやっている仕事を2人でやれば、2人の賃金が1.5倍になる。1人が仕事を失う。そういう事実を受け入れられるかどうかだ、日本社会が直面する究極の選択。

 それで社会が崩壊するかというと、そういうことはない。1.5倍も賃金が上がった2人の消費が増えれば、新たな商機が生まれ、雇用が生まれる。トリクルダウン理論は日本で通用しないとか、失敗しているとか。そもそも実践されてもいないのだ。解雇できるように労働法制を改めることをなくして企業は何もできない。

 解雇された人間は餓死するのだろうか。必死になって生きるためのサバイバル術を手に入れることだ。生活保障を受けてパチンコを楽しんでいる輩が徘徊するような国では、そういう呑気なことを言っていられないだろう。

 サバイバルを美徳とせよ。

日本人よ頭冷やせ、真の高福祉国家とは何か

 先日のデンマーク旅行、深く感銘を受けた事がある。多くの日本人が夢見て、求めている高福祉国家の内実とは何かという課題だ。

 まず、物価。日本の2倍という高物価。ものによってはさらに高いものもたくさんある。日本人は耐えられるのか。

 次に、消費税率は25%。日本は8%から10%になるだけで悲鳴を上げるくらいだから、話にならない。

 そのうえ、税と社会保険。国民負担率68%。いかがですか。

 さらに、超がつく高生産性。3人の仕事を1人でやる。しかも残業なし。そこまで生産性を求められる。杓子定規をどんどん捨てて生産性の極限に挑む。日本人はできるのか。

 それだけではない。デンマークは解雇自由の国。妊娠中の女性以外、基本的に解雇自由。解雇の理由も本人が聞かなければ会社は言う必要なし。正社員の身分保障を求めるとか、そんなことを言ったら天下の笑いもの。

 さらにさらにある。軍事力強化と徴兵制度。どうだ。そんなことを言ったら、日本の政治家ならクビが吹っ飛ぶ。

 世の中は、何事も、Give and Take。一方的に高福祉を求めても、ないものねだり。よく頭を冷やせ、日本人よ。

少子化は好機、日本は高生産性自立型社会目指せ

 日本は少子化で騒がれているが、少子化に問題があるとは、私はまったく思わない。逆に少子化は、これからの日本にとって好機や幸運以外の何物でもない。

 結論からいうと、企業の少数精鋭化と同じように、国も少子精鋭化すればいい。人工知能が発達し、どんどん職場が奪われる中、労働生産性の向上、そして国民成熟度の向上に取り組むべく、むしろ少子化のほうが都合がいい。

コペンハーゲンの街並み

 先日、デンマークのコペンハーゲンの駅で電車の切符を買おうとしたら、有人窓口がなくすべて自動販売機だった。問題はこれからだ。よく見ると自販機は現金を受け付けない。すべてクレジットカード用になっている。切符販売の省力化だけでなく、現金売上処理にかかるコストの削減も考えられているのだ。

 よし分かったからカードを使おうと私もカードを入れる。すると自販機は「PINコードを入力してください」という表示が出る。「PINコード」って何?よく分からないので、変に操作してカードが飲み込まれたら厄介だ。まず確認しよう。駅員に聞こうと周りを探しても駅員が見つからない。コペンハーゲンの駅は、有人切符売り場もなければ改札口もない。ホームにたった1人の駅員が安全チェックのために配置されているだけ。

 立ち往生しながらも、最終的に分かったことは、取引PINコードが設定されていないカードは、「123456」でも「000000」でも何でもいいから入力すれば、ちゃんと決裁されることだ。日本人的に考えると、えらい不親切な駅だが、でもこれは成熟社会のモデルではないかと私は思った。

 人に頼らないこと。自力でなんとかサバイバルすること。それは国民一人ひとりから理解され、受け入れられなければならない。きめ細かいサービスを望むべきではないということだ。そうしている間に、一人ひとりの国民自身も学習力が向上し、生存競争力が向上する。

 ボケ老人に冷酷な社会と言われたら、まずボケないようにどうすればいいかを考え、実践するのだ。このような高度な自立型の北欧社会に、日本は成りきれるのか、甚だ疑問である。だが、少子化が進めば、ならざるを得ない。さもなければ、国が没落する。それ以外に選択肢は皆無だ。

 そういう意味で、少子化は日本にとって、一服の劇薬でありながらも、再生の好機でもあろう。

政の正と性の正、政治家に何を求めるべきか?

 日本は沸騰中。山尾志桜里氏不倫報道一色。

 私は山尾氏が嫌い。理由は単純に彼女は政策できないし他人の足引っ張りに熱中することだった。彼女は降りるべきだと思う。ただ最終的な降ろされ方は下半身問題だった。

 ならば、国家に多大な貢献をする有能な政治家も不倫で降ろされる可能性が濃厚になる。有能な政治家で不倫をしない保障はあるのだろうか。有能になればなるほど狙われやすいことも自明の理だ。

 仮説。不倫はするが政策で結果を出せる政治家A、不倫しないが政策もできない政治家B。どっちが良?どっちを選ぶべきか?
政治家には、「政」の正も「性」の正も同時に求めるべきだろうか。

 「政」の正を求めるのが国民であるのに対して、「性」の正を求めるのは当事者とその配偶者である。

 政治家も生身の人間であることを忘れてはいけない。不倫問題は左右を超え、超党派的な問題であることも忘れてはいけない。そして、政よりも、性のほうがはるかに分かりやすいこともさらに、忘れてはいけない。

 政に無関心な民が多くても、性となれば、瞬時に1億総評論家化する日本である。

 産経紙の評論は一層激しさを増している。加計問題やパナマ文書問題、五輪招致疑惑問題を持ち出し、一貫して「調査」に熱心な民進党はなぜ今回は黙っているのかと問い詰める。私は保守の部類で産経の愛読者でもある。ただ正直、この論法にはいささか疑問をもつ。

 加計問題、パナマ文書問題、五輪招致疑惑問題はいずれも金銭問題であるのに対して、不倫問題は倫理問題である(ホテル代は公金流用なら金銭問題になるが)。本質的な相違がある。

 保守陣営は、「政治家の倫理問題に首を突っ込むべきか」という原理原則をまず示すことが必要だろう。敵失を叩く前に明日の我が身というリスク管理も考えておくべきだろう。保守陣営の全員が去勢された宦官じゃあるまいし、男女の情事は世の常であることを忘れるな。

 保守陣営も結局、同調圧力があって、山尾氏叩きに一斉躍起している。私はこれに反論を提起したところ、奇異な目線を浴びることもあろうが、縷々論理を説いてきた。

 産経紙まで加勢し、大々的に政治家不倫叩きキャンペーンに躍起している。それは当座、熱狂的な保守ファンに祭り効果をもたせることになろうが、その論理によって、将来的に保守陣営にもブーメラン効果の潜在的リスクを孕ませることになった。

 山尾氏は政治家の資質を備えていない。いずれ脱落するだろうから、不倫問題で落とすのが賢明とは思えない。逆に民進党を利する場面すらある。民進党は、例の山尾氏不倫事件で、党重役の抜擢を断念し、離党してもらったということで、「潔き処理」の前例を作ったのだった。この規範を将来的に自民や保守陣営にも当てはめる。

 故に、「山尾氏は政治家の資質を備えていないだけで、不倫疑惑という偶発的な出来事を借りて、彼女を民進から排除するやり方は、卑怯そのものだ」というアプローチを取るべきではないだろうか。