「立花聡の履歴書~私はこうして会社を辞めた」カテゴリーアーカイブ

私はこうして会社を辞めました(60)―感謝

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 2009年、独立・起業して9年目の今日、私がこうして筆を取り(キーボードを叩き)、回想録を書き綴っていると、色々な人の顔が思い浮かび、知らずに目頭が熱くなったこと、何回もありました。ダラダラと書き上げたこの拙い回想録ですが、決して私一人のものではありません。人生44年支えてくれたすべての方々全員のものです。

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 まっすぐ、誠実に生きること。
 やるべきことを真面目にやること。
 常に自己否定をし、自己改造を続けること。
 他人の目線でものを見ること。
 人に価値を提供すること。
 後ろに逃げ道を断つこと。
 世は無常でしがみつかないこと。
 常に笑うこと。
 泣きたいときは泣くこと。
 ストレスを溜め込まないこと。
 時には、子供のように無邪気になること。
 人を愛し、感謝すること。
 思い出作りにお金を使うこと。
 そして、死の直前まで勉強し続けること。

 人生44年間の勉強成果は、様々な方が与えてくれたものです。この回想録に仮名或いは実名で登場した方々、登場していない方々に感謝します。

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 私たちが住むこの美しい星を、健康な体で自由に歩くことができました。私は、本当に恵まれた人です。美しい自然、優しい人々の笑顔、美味しい食べ物と酒、家族や友人と一緒に過ごした時・・・思い出が私の一番の財産です。この財産を与えてくれた皆さん、そしてこの地球に感謝します。

 最後に、私のもっとも大切な家族、妻・理恵子に心から感謝します。独立した当時、自宅が事務所になっていました。1日18時間の仕事、伝票一枚一枚、書類一冊一冊、封筒一つ一つ、タイプ一文字一文字に彼女の苦労が刻まれています。裏方として黙々と働き続け、内助の功と言いますが、彼女の献身的な貢献をなくして、とても私の存在はありえません。

 そして、私を育ててくれた両親に感謝し、本連載を亡き父と亡き祖父母に捧げ、冥福を祈ります。

 最後の最後ですが、この長い連載は、最後まで読んでくださった読者の皆さんに、少しでもお役に立ったのならばこれ以上嬉しいことはありません。皆さんに深く感謝し、ご家族の幸福を心からお祈りします。

 本当に、ありがとうございました。謝謝!

<終わり>

私はこうして会社を辞めました(59)―幸せになろう

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(敬称略)

242412002年、独立後初めて自社オフィスができた

 翌年の2002年から、本格的にコンサルティング事業に取り組み始めた。

 「エリス・コンサルティング?あっ、あの情報配信のエリス?お宅、コンサルもやっているの?取り扱い案件事例をまず見せてくださいな」
 「大変恐縮ですが、貴社を弊社の一番目の事例とさせていただきたい」
 「初めてか?事例がないのですね。じゃ、腕試しにまず小さい案件から・・・」
 「ありがとうございます。是非、やらせてください。一生懸命やります」

 馬鹿正直な回答で、逆にお客様が安心したようだった。コンサルティング案件の受注もじわじわと増え始めた。当時、数百元単位のミニ調査も請け負っていた(今は会員向けの日常基本サービスで対応している)。徐々に、千元単位、万元単位と案件が大きくなっていき、今は数十万元単位の制度構築案件が中心となった。コンサルティングに対する顧客企業の一番の不安は、成果物が役に立たないことだ。現在、大型制度案件には、すべて立ち上げ後の一年間無料メンテナンスを付け、制度が軌道に乗ることを見届けるようにしている。

24241_22003年、ロイター上海の「跡地」に「立花商店」が入居した

 2002年春、起業して1年半経過。エリス・コンサルティングは、外灘(バンド)近くの中匯大厦に移転し、ようやく自社オフィスを確保できた。

 そして、翌年2003年、業容拡大に伴い、同じ中匯大厦の602号室に館内移動した。これは、私が夢にも見ていたことだった。この602号室は、何と、元ロイター上海事務所が入居していた場所だった。90年代、私は、同じこの602号室にあるロイター上海で働いていたのだった。同じ風景が見える同じ場所ではあるが、看板が変わっていた。「ロイター」という大企業の看板が外されていた。その代わりに、ここにあるのは、私が3年前に田辺本部長に約束した「立花商店」だった。

 魯迅がいう、「希望とは、地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」。しかし、後ろに逃げ道があってはならない。逃げ道を断って前に新たな道を切り開くのである。もちろん、後ろの逃げ道をすべて断っても、前に進む道だけは何本か用意した方が良さそうだ。

 私は、いかに無知か、コンサルティングをしばらくやると、自覚するようになった。最近、中国ビジネス・コンサルタントを名乗る人が急増している。玉石混交状態だ。「コンサルティング」とは、何か?「情報提供」などの助言機能を挙げる人もいるが、それはあくまでも一つのツールで、コンサルティングは、最終的にほかでなく「問題解決」なのだ。「情報提供」から「問題解決」にいかに持っていくか、私も相当苦労した。コンサルティングは、一見初期投資をあまり必要としない業種だが、実は大きな投資が必要なのだ。それは、「勉強」への投資なのだ。「勉強」にはお金もかかるし、時間もかかる。一部、仕事の受注を割愛することも必要だ。でも、やるしかない。

 そして、2004年、私は、40歳にして、大学キャンパスに復帰した。法学修士とMBAを目標にし、復旦大学と中欧国際工商学院(チャイナ・ヨーロッパ・インターナショナル・ビジネススクール)の2校に、同時に通った。

 ビジネススクールの面接官に聞かれた、「あなた、同時に2校ですか、それに会社経営?身体は持ちませんよ、覚悟はできているのですか」。私は、もう40の人だ。人生の半分は終わっている。一分一秒の争いだ。ためらう余地がない・・・

24241_42007年夏、MBA取得 (中欧国際工商学院 CEIBS)

 「立花さん、MBAとか法学修士とか、中国進出の日系企業は初歩的なもので十分じゃないか、あなたは、マッキンゼーのような会社でも作る気ですか」、ある中堅日系企業の経営者に嘲笑されたこともあった。私は、マッキンゼーにはなれないが、マッキンゼーが持っていないもの、マッキンゼーを超越するもの、一つだけでも持ちたかった。そして、マッキンゼーが解決できない問題を一つだけでも解決する力を持ちたかった。

 コンサルタントの極意は、問題解決だ。問題解決すれば、お客様が幸福になる。だから、コンサルタントは、企業や人を幸せにする職業なのだ。特に人事コンサルタントにとっては、企業の繁栄と従業員の幸福が、最終目標になる。私自身も、サラリーマンとして会社生活の喜怒哀楽を体験してきた。何とかこの体験を生かし、たくさんの企業が繁栄し、また、たくさんの従業員が幸福になることを目指して、がんばっていきたい、このように願っている。

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私はこうして会社を辞めました(58)―危機一髪の起業

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(敬称略)

24208独立後の売り込み、各地でセミナー巡礼(札幌04年)

 2000年の夏は暑かった。私と妻は、借りていた麻布十番のマンションンから退去し、しばらく神奈川県の逗子にある妻の実家に居候させてもらった。窓外に蝉がミーンミンミンと鳴っている中、団扇をパタパタさせながら中国事業の準備を進めた。

24208_2北から南、セミナー巡礼(福岡04年)

 そして、8月、私と妻を乗せた中国国際航空機が上海に向けて、成田を飛び立った。今回は駐在員赴任当時のようなビジネスクラスもシャンパンもない。最安値のディスカウント航空券だった。さよなら、ニッポン!

 上海では、ロイター上海時代の同僚だった香港人のハーディー・チェンがビジネスの提携話を持ちかけてきた。彼は、そのときすでに独立し、合弁のIT企業を上海で興した。上海駅前のオフィスで事務机を一つ貸してくれた。そこで仕事を始めることになった。提携とは、インターネットの日本語タウン情報ポータルサイトの立ち上げだった。結果的に資金繰りの問題で頓挫し、プロジェクトが失敗した。

 同時に、私が着手したもう一つの事業は、徐々に軌道に乗り始めた。コンサルティング事業を目指す私は、まず、日本語ビジネス情報配信を狙った。コンサルティングといえば、顧客企業の信頼がなければ成り立たない。私のような一個人で、ネームバリュー皆無で顧客企業の信頼を勝ち取るのが非常に難しい。いきなりコンサルティングと言っても相手にしてくれないから、手順を逆にした。まず顧客企業会員誌を立ち上げ、日々接点を持ちながら、徐々に信頼関係を作り上げていく。信頼関係ができた時点で、コンサルティング事業に切り込もうという計画だった。また、自分が他社のビジネスに口出しできるまで、たくさん勉強しなければならないものがある。その学習期間としても都合が良かった。

24208_3独立後の北京出張は安い寝台列車で、朝一番から仕事ができるのも魅力

 現在当社の会員誌は、メインとなる法務レポート(月2回配信)とサブの一般ビジネス情報(平日毎日配信)の2本立てだが、事業の当初は後者だけだった。初めの頃は、外注編集要員1名と私の合計2名で、ソース集めと題材選択から、翻訳、精査、編集、校正、そして配信まで、すべてこなさなければならない。もちろん自宅作業が中心。病気などかかる暇がないし、かかることもできない。1日18時間労働、パソコンとベッドだけの世界だった。

 2001年の旧正月明け、会員誌の日本語ビジネス情報配信で初の売上げが入った、―6000元(月間)。その晩、久々に妻と祝杯を挙げた。それは自分たちが作った商品、自分たちが売って得た収入なのだ。嬉しい、涙が流れるほど嬉しい。というよりも、ほっとした。そのときは、インターネットの日本語タウン情報事業の失敗で、貯金がほぼ底につき、また失業保険の給付も期間満了で打ち切られ、資金ショートに直面していたからだった。危機一髪。そして売上げは、翌月8000元、しばらくすると1万元へと順調に伸び始めた。

 同時に自分の会社の設立にも着手した。社名を定めるのに色々と考えた。情報資源を集結し、知恵を絞り、問題解決していき、顧客に優れたソリューションを提供することで、「Excellence(卓越)=Resources(資源)+Intelligence(知恵)+Solutions(ソリューション)」の英文頭文字を取って、「ERIS」とした。

 2001年10月、私37歳の誕生日を迎えたとき、上海エリス・コンサルティング有限公司が誕生した。

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私はこうして会社を辞めました(57)―逃げ道は断たれる

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(敬称略)

24181独立後取った最初の中国労働ビザ

 2000年6月30日、私、立花聡は、サラリーマン生涯に終止符を打った。

 もう、毎日憂鬱な気分で会社の玄関をくぐることはなくなると思うと、肩から力が抜ける。

 「大企業よ、私は、必ずやってみせる、必ず成功してみせる」、心の中でつぶやきながら、悲劇のヒーローを気取った気分に酔いしれる自分は、不思議な高揚感に包まれる。

 会社に背を向けて街に一歩、二歩と、踏み出す。東京の街は、いつものように、車の騒音、早足で歩くビジネスマンたちで熱気が溢れている。私は一瞬ぼう然とした。さあ、どこへ向かうか。行く先がない。行く先を考えていると、歩くスピードが落ちる。すると、右からも左からも一人、二人、三人と次々と早足で先を急ぐ人たちに抜かれていった。突然と、私からは、先あった高揚感がきれいに消え去った。取って代わられたのは、自分がこの街から排除された孤独感だった。次第に、孤独感が恐怖感に変わってゆく。

 駅近くのカフェに腰を下ろし、気を取り戻す。これからやらなければならないことを一つ一つ手帳に書き出し始めた・・・

 多くの起業家のように、緻密な計画を立て、事業資金を用意してからの独立ではなかった。四方八方の逃げ道を一つ又は一つ断たれる中での背水の陣だった。

 起業資金は退職金の300万円余り、資産は3年間償却済みの古いノートパソコン1台、社員は私と妻の2人。預金を取り崩しながら生計を維持できるのは、1年程度。2001年の夏までが勝負。それまでに事業を軌道に乗せることに失敗したら、路頭に迷うことになる。

 当座の生活資金は、失業保険で当てることにし、私はハローワークに通うことにした。会社で加入していた年金も脱退し一時金をもらい、ロイターの社員持ち株も全数売却した。少しでも手元の運用資金を増やそうとした。

 旅行などはもちろんできなくなった。豊かな生活は歴史になった。友人に誘われても理由を作って飲み会を断った・・・今後の事業や生活の見通しがまったく立っていない。焦る気持ちを隠しながらも、妻から聞かれるとどう答えるか分からないため、それらしきムードになると、慌てて話題を変えたりもした。しかし、妻からは、一度も聞かれたことはなかった。彼女は黙々と家事をし、仕事の手伝いに没頭していた。

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私はこうして会社を辞めました(56)―大企業の看板と立花商店

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(敬称略)

 「一杯、行きましょうか」

 悶々とした毎日を元気なく過ごしていると、田辺本部長から食事に誘われた。田辺本部長はなかなかの酒豪で、何回も一緒に飲んだことがある。その日も例によって酒が進むと、いよいよ話題が仕事の話になる。

 「立花君、気持ちはよく分かる。あなたが中国や香港で大変苦労したことも、部下を束ねて「立花商店」をやっていたこともよく知っている。それで素晴らしい業績を挙げたことも皆見ている。そういうことを言うのもなんですが、その「立花商店」の背後に、常にロイターという大きな看板が付いていましたね。それを忘れないでほしい。いま、「立花商店」から別の王国になった、それがなかなか馴染めない、苦しんでいるんでしょう。もし、それでも「立花商店」をやりたいんだったら、それはそれは、「立花商店」をやったら良いと思う。でも、今度は、ロイターというデカイ看板をはずしてやることになりますよ、しんどいですよ・・・」

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 田辺本部長が一生懸命に私を納得させようとした。彼の言葉に誘われたかのように、6年間の一幕一幕、それと、中国と香港のジャパニーズチームのメンバーの笑顔が一つ一つ目の前に浮かび上がった。

 試用期間にクビがギリギリ切られそうで崖っぷちで初契約を取った。白酒一本開けて腰を抜かしても大量受注にこぎつけた。工事担当のミスで私が顧客に怒鳴られて深夜に北京まで駆け付けた。台風と雨の中でビルの屋上によじ登り、人間伝書鳩になってのアンテナ直しもやった。ほぼ白紙状態の中国市場でダントツの95%シェアを取った。香港ではアジア金融危機の残局収拾もやり遂げた・・・

 これは、「立花商店」というのだろうか?大企業の看板を背負いながらの個人商店というのだろうか?大企業の看板さえ背負っていれば、個人商店がうまく行くのだろうか?大企業があっての個人商店か?それとも、個人商店で大企業の看板が成り立っているのだろうか?

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 瞬間に、色んな質問が交差する。そのとき、酒に酔っていた勢いもあってのか、私は妙に自信を持っていた。私がもし、中国に行かなかったら、ロイターは日系市場の打開もなかっただろうと考えていた。なぜなら、顧客の日系企業から、「立花さんがいるから、ロイターと契約したのだ」と言われたことが何度もあったからだ。

 しかし、後日、私のこの読みが甘かったことが実証された。理由は簡単だ。大企業の看板を背負って、大企業の名刺を差し出して、大企業の一員として営業をした場合、つまり、ロイターの立花だから初めて相手企業の担当者に話を聞いてもらえるわけだ。独立後、零細企業の立花として、同じようにしても、話さえ聞いてもらえないことがほとんどだった。営業の成果、つまり成約は、営業可能という前提にしている。営業しても話を聞いてもらえなければ、成果などは、夢のまた夢になってしまう。

 それに、私に致命傷がある。会社を辞めて、会社時代の取引先と引き続け取引をすれば、幾分個人の信頼が残っているだけに、やりやすいのかもしれないが、私の場合、まったく違う新規事業で、まったく違う顧客を相手にするから、まさに何もない真っ白の紙だった。大企業の看板は、やはり重みがあることを実感した。

 だから、そういう意味で田辺本部長が語る「大企業看板論」はまったくの正論である。当時の私は、酔った勢いに乗って豪語を言い放した。

 「田辺さん、私、人生にもう一度「立花商店」を作ってみたい。今回は、ロイターという大企業の看板をはずして・・・」

 翌朝、田辺本部長と古田部長の机上に、私の退職願が置かれていた。

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私はこうして会社を辞めました(55)―行き詰まる転職活動

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(敬称略)

 「心得十か条の質問書」という社長直訴書状に添えられた退職届は、一応形上の解決済みとして、撤回の処理となった。しかし、根本的な問題は解決されないまま、先送りにされただけだった。

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 その後、私の身体に異変が生じた。通勤電車に乗ると、吐き気や目眩がして、会社の入り口をくぐるのが苦痛でしかたなかった。不眠が続き、悪い夢も見た。時に、パソコンの画面を見つめては違う画像が見えてきたりもした。

 古田部長がルールを決める権力を持っている以上、私がいくら戦っても勝ち目がない。どんな手強い競合他社からでも顧客を取る自信があっても、社内となれば私の無力さが無残に露呈する。

 残される選択肢は、会社を辞めるしかない。

 人材会社数社に登録し、転職先の斡旋を依頼した。もちろん、海外勤務希望だった。さっそく、ロイターの某競合社への就職の勧誘があった。私は、考えもせずにすぐにそれを断った。今まで自分が顧客に対するコミットメントを捨て、今までの自分の立場を一変させ、平気な顔で競合社の商品を顧客に売り込む、そんな屈辱なことはとてもできない。それなら死んだ方がましだ。私は、決してロイターという会社を裏切ることはできない。私は今でもロイターを愛し、決して立場を変えることはない。

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 次の2週間にいくつか転職先の紹介が舞い込んだ。

 米国系大手メーカーG社の中国国内営業マネージャー。嘱託として1年契約の3回更新後、総合評価しての正社員転用。主旨は、明白だ。営業実績が上がらなければ、短期間で解雇。3年で市場を打開すれば、状況次第で正社員転用か使い捨てかだ。私はメーカーに合わないし、G社の賃金も準現地採用待遇で、家族を養うには無理がある。G社は無理だ。

 上海の某外資系Mホテルの日本顧客マネージャー。待遇はまずまずだが、ホテルの中の住居となるため、家族帯同は難しいし、私の経歴もオーバークォリフィケーション(資格過剰)と判断された。これも断念。

 海外転職は、それほど容易ではない。それが無理なら、残された唯一の道は、独立だ。といっても、どのようなお客様を相手に、どういう商売をどういうふうにやるか、創業資金や運転資金はどう調達するか、生活資金は確保できるか、何一つ目途も立っていない。

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私はこうして会社を辞めました(54)―私は「飛び地」の囚人

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(敬称略)

 古田部長は、決して悪人ではない。仕事ができる有能な部長だった。彼の業績はロイターの中でも優秀な方で、仕事面でいえば私は彼をとても尊敬している。その反面、自信の持ちすぎで権力支配欲の塊に変身したのか、論理的にそれを結論付けすることはできないが、「古田王国」の存在だけは、否定できないものだ。

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 「封建王国」といえども、それも組織形態の一つ。会社に対し、NP部という部門組織として悪くない業績を上げていれば、その組織の「自治権」を会社が保障する。2000年初頭なら、いまほどパワーハラスメントなどが問題になっているわけでもなく、「十か条」こそ経営陣に「う~ん」と言わせたのかもしれないが、全体的に決してこの部署を問題視していたとは思えない。おそらく「古田王国」に対し、公に派手なクレームをつけたのは、私が初めてだったのではないかと思う。集団現象ではなく、あくまでも個人単位の問題であれば、それは問題ではないというふうに理解しても納得するだろう。

 しかし、私という個人レベルになると、話が違ってくる。

 ロイターは、典型的な欧米型企業である。自由な社風に引かれて私が入社した。仕事の業績に大変厳しい会社で、パフォーマンスに基づいた人事考課と待遇設定はドライであり、温情人事は皆無に等しい。その代わりに、社内人間関係や社内営業に余計な気を配ることがないのが、私にとって一番の魅力だった。上海時代も香港時代も、責任こそ重いものの、自由に仕事ができた。しかし、「古田王国」は、ロイターという会社の中の治外法権的存在だった。周りに自由に仕事をしているほかの部署の人たちを見て、何だか無性に悲しくなる。

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 そう、NP部は、会社の中の「飛び地」のような存在だった。飛び地の中に閉じ込められた自分は、言葉で表すことのできない孤独感と苦痛を味わっていた。

 古田部長は、部の長として、部のルールを決める権力がある。それは否定できないし、また、それはそれで古田流儀のルールを非難する立場には私がない。しかし、私がその部に配属されたのは、決して自分の意思ではなかった。自分で選択する権利がなかった。だから、そのルールがどうしても嫌だったら、選択肢は三つある。

 その一、服従して忍耐する。
 その二、戦って、ルールを変えさせる。
 その三、会社を辞める。

 私は、まず選択肢その一を否定した。納得しないことを強いられ、ただただ耐えていくのが性に合わないし、貴重な人生の時間を無駄にすることは決してできないからだ。そして、選択肢その二を試みたものの、組織を前面にして自分が如何に無力だということを思い知らされた。すると、残される道は一つしかない―会社を辞めることだ。

 「会社を辞める」、これは、一サラリーマンが会社に対し取れる唯一の対抗手段である。

 社長直訴の書状を書き上げたとき、末筆に辞職の旨を記しておいた。

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私はこうして会社を辞めました(53)―自嘲に耽る孤独な鳥

<前回>
(敬称略)

 東京帰任後の4か月目、月額20万円の「見なしコミッション」の支払いが、止められた。当初提示された年収900万円は、空中楼閣となった。コミッションがなくなると、実質的年収は、600万円強しかない。香港時代の1700万円に比べ、香港と東京の生活水準の格差を加味すると、私の年収は3分の1以下に激減したことになる。

 お金はすべてではない。理屈は分かっていても、自分が一介の凡人である以上、モチベーションの低下は避けられないし、またそれを自覚できるようになった。

24066_2東京の生活は厳しい

 年収900万円を前提に東京での暮らしを計画していたが、すべて狂った。通勤時間を短くするために、事務所のある神谷町に近い麻布十番にマンションを借りた。年収600万円なら完全に無理だ。麻布十番辺りの物価も高い。香港なら、生活を贅沢にしようが質素にしようが選択可能だが、東京では無理だ。妻も専業主婦をやめてパートで働かざるを得ないだろう。

 そもそも、コミッションを当てにしてそれを収入総額に折り込んだのが、私のミスだった。生活コスト全般の上昇は予想以上だった。そればかりでなく、住宅スペースも、上海時代の160平米から香港時代の90平米、そして東京の40平米に半減のまた半減になった。駐在員時代に購入した家財道具は、海外の大きいサイズで東京のウサギ小屋に搬入できないものもあれば、総量的に収容できないものもある。捨てに捨てきれないものは、物流会社の倉庫を借り、保管料を払ってまで馬鹿だった・・・

 東京のマンションは、海外と比べると格段に狭い。身体の大きい私は、慣れない内に何回何回も家の中であちこちぶつかり、身体中に傷だらけだった。

 生活費を切り詰めるため、外食はほとんどしなくなった。旅行やバカンスは夢のまた夢。このブログに使おうと写真を探したが、東京帰任後の半年の東京生活には一枚の写真もなかった。

 生活面の不自由は何とかクリアできても、仕事面の困惑は自分の力で解消できない。あの半年の東京暮らしは、人生の中でも酷く痛んだ時期だった。

 転勤、生活・仕事の環境の変化は、サラリーマン本人とその家族に与える影響は大きい。自分は身をもって分かった。会社の都合とはいえ、一社員個人の身に起きる大きな変化によってもたらされる影響は、いずれ仕事にも及ぶ。転勤など大きな環境の変化を伴う社員へのメンタルケアはいかに大切なのだろう。

 私には、相談できる人はいなかった。会社での人間関係がうまく行っていないことは、妻も知っているが、それ以上心配をかけることはできないので、一人で考え込むしかなかった。

24066_4孤独な鳥

 顧客のアポを待っている時間は、大抵どこかの喫茶店に入ってぼーっとする。自分の名刺をじーと眺めていると、英文の「Manager」が目に付く。私が何をマネージしているのだろう。むしろ、マネージされていて、いかによくマネージされるために何をしたら良いかを考える立場ではないか。そして、自分が自分のつまらぬ自嘲で一人笑いし、少しでもストレスの発散で、ほっとする。

 上海時代と香港時代が懐かしい。あのときの仲間たち、みんな元気かな・・・

<次回>

私はこうして会社を辞めました(52)―これが成果主義人事か?

<前回>
(敬称略)

 東京に帰任して、私はNP部に配属され、地銀の東京支店担当課長という肩書きをもらった。課長なんて格好よく聞こえるが、部下ゼロの空ポストだった。しかも、あの「古田封建王国」では、古田部長が唯一の帝王として君臨する限り、課長だろうと次長だろうと、ただの小間使いにしかなりえない。古田の号令で部が一斉に動くのだ。一人一人独自に思考するよりも、「心得十か条」を頭に叩き込み、服従さえ覚えれば良いのだった。

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 一言で言えば、NP部では、「思考力」よりも「順応力」と「服従心」が求められていた。これでは、人間の脳が腐ってしまう。思考して行動できない人間は、飼われたペットになってしまう。

 収入面でも、深刻な状況に直面する。当初、東京勤務の条件として、「月給45万円プラス定期ボーナス、営業コミッション平均月20万円の上乗せで、年収900万円程度」と提示されたが、実際に東京に戻り、地銀を担当してみると、コミッションがもらえないことが分かった。

 金融危機と銀行統合の結果、地銀は東京拠点の縮小を余儀なくされ、新規契約どころか解約を食い止めるだけで精一杯だった。会社も状況をよく知っていた。解約を食い止めるだけでも、評価すべきだと言ってくれ、最初、「見なしコミッション」として毎月約束の20万円を払ってくれた。しかし、この「見なしコミッション」は、3ヶ月後止められた。

 売上げもしないのに、コミッションをもらえないのが当然だが、公平なスタートラインがあってこその話だ。しかし、ロイター・ジャパンは、大手外資銀行、大手都銀、地銀、一般企業など、顧客の業種や業態、規模で業務担当を分けていた。すると、経済・金融情勢で景気グループと不景気グループが出来上がり、そこで売上げないし個人のコミッション収入の明暗が分かれる。

 結果の平等があってならないが、機会の平等は、公平性上欠かせない必須条件だ。だが、ロイター・ジャパンでは、スタートライン時点の「機会」の平等が欠落しているにもかかわらず、単純に売上げという「結果」に基づき、無差別な一律ルールで全営業社員の業績を評価していた。これは、不公平以外何物でもない。成果主義人事と名乗っても、そもそもゲームのルールがゆがんでいる以上、公平な結果にはならない。人事制度構造上の欠陥だった。

 現在、私が人事コンサルティングを行うとき、成果主義の人事制度の立ち上げにあたっては、制度内容よりも、ルールや評価基準、そしてプロセス上の公平性、公正性と透明性を最重要視している。それは、私自身のこの苦い過去体験が教材になったと言っても差し支えない。

 組織の中で、業務配分上の合理性を考え、完全たる公平性はありえないのが事実だが、その歪みを補正する調整機能を必ず設けなければならない。それから、もう一つ重要なことだが、個人業績の一本を基準にし、単純個人コミッションベースで評価すると、チームワークの欠落や崩壊のリスクに直面し、最終的に必ず顧客満足度の低下につながる。

 中国や香港駐在中に、私は高い給料と個人コミッションをもらっているだけに、部下やチームメンバーに定期的に食事や酒をおごったり、結婚式や誕生日にお祝いを包んだりしていた。もちろん、すべて私個人のポケットマネーだった。私一人に払われていたコミッションは、本来チーム全員に配分すべきものだが、会社の配分ルールがそうなっていなかったため、私が代わりに調整機能を設け、その再配分をしていただけだった。

<次回>

私はこうして会社を辞めました(51)―給料が半分になる

<前回>
(敬称略)

 香港駐在時代、私の給料は年俸98万香港ドル、営業コミッションを加算すると、円換算で年収1700万円を超える(香港の高い家賃はそこから控除されるが)。30代前半のサラリーマンにしては悪くない収入だった。

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 東京帰任の話が出たとき、仕事面はもちろん、収入面の心配もかなりあった。東京帰任後の待遇について、会社から次のような説明を受けた。

 「月給45万円プラス定期ボーナス、その上、営業コミッション平均月20万円ほど上乗せすると、年収900万円程度になる」

 1700万円から900万円に、年収がほぼ半減する。東京と香港の生活水準差を加味すると、実質的に年収6割以上の引き下げとなる。サラリーマン家庭にとって、これはただ事ではない。私は海外の仕事が好きだったし、何とか東京帰任を避けたいと、打診したところ、東京帰任を拒否するのなら、声明書に署名する必要があるとの回答が戻ってきた。声明書の内容は、概ね次の通りだ。

 1.東京帰任は、私自分の意思で拒否した。
 2.東京帰任の拒否によって、ロイター・ジャパンの雇用関係が解除される。
 3.上記雇用関係の解除に伴い、駐在員資格待遇が即時に打ち切られる。
 4.雇用関係は、ロイター香港の現地採用に切り替える(現地での解雇もあり得る)。

 駐在員資格待遇が解除され、香港に残った場合の年収は、現状のほぼ半分に引き下げられる。要は、東京に戻っても、香港に残っても、給料半減という結果は変わらない。しかも、香港に残ったらクビをいつ切られるか分からないが、東京に戻ればせいぜい雇用は保証する、という結論だった。

 私には、選択肢などまったくない。

 何年もかけて、汗水たらして中国で日系企業市場を打開した功績を考えるだけでも、そこまで酷い処遇はないだろう。

 外資企業は、基本的に「ポストがあっての人」で、ポストに求められる役目を果たせば用なし。一見給料が日本企業より高いが、その高い給料はあくまでも「人」ではなく、「ポスト」に払っているのだ。しかも、短期一括集中投資手法であるため、総じて長期ないしサラリーマンの生涯ベースから考えれば、日本企業と総額に大差はないと思った。

 それを考えると、いやでもとりあえず自分を納得させることができた。だが、東京に帰ってみると、年収900万円でも夢のまた夢だったことが分かった。

<次回>