狐仮面狸仮面そして仮面舞踏会の夜明け、ブログ書き込み雑想

 たまに話題を変えよう。ブログの書き込みコメントの話。

 人間が書いたものって、その人の思想信条や定型的な思考回路が反映され、特徴付けられるものである。文脈を読んで、よく似ている書き込みが何回も来ていることに気付き、管理者ページでチェックすると、見事に同じIPアドレスになっていた。だが、名前が違う。

 いま使っているブログは、IPアドレス管理機能がついていて、特定のIPアドレスを瞬時に検索できるようになっている。まったく同じアドレスからの書き込みコメントだが、それが複数の異なる名前(匿名)がついていることが分かった。

 場面場面使い分けているようだ。それはたとえばある書き込みの議論で論破されたり都合が悪くなっても、次はあたかも別人であるかのように別の記事に書き込めるわけで、大変合理性がある。

 仮面舞踏会に、毎回毎回違う仮面を被って女性を口説く。失敗しても正体がばれないし、また次から次へと違う仮面を被ってトライすればよい。やはり合理的である。心は傷つくが、メンツは保てる。

 中世のフランスなどヨーロッパの宮廷では、貴族が仮面をつけて舞踏会が開かれていた。貴族は普段日常的に上品に理性的に振る舞わなければならない。それがストレスが溜まり、たまに理性を捨てて思うがままに振る舞い「精神的な裸」になりたい。そこで一枚の仮面がそれを成就させてくれるのである。

 そんな延長線上で書き込み匿名変えの話にもどる。狐仮面で都合が悪くなったら、狸仮面に切り替える。その現象(心理)をどう説明するか。同じ仮面を被り続けると、その仮面がいつの間にか第2の自分になる。第2の自分が否定されると、本来の姿こそが曝け出すことはないものの、バーチャル社会でのダメージにつながると、本人がそう考えているのかもしれない。

 真実の社会でダメージを受けると再起が大変だ(特に日本人)。それはいくら整形しても本来の自分を変えることができないからだ。バーチャル社会なら、仮面一つ変えれば異なる自分になれるわけで、手っ取り早い。ただ、一つだけ真実の自分にはいかなる仮面も効かない。これほど冷酷な真実はない。そういう意味で、仮面変えからはいかにもガラスのような繊細脆弱な内面が弱々しく見えてしまう。

 逆に、私はブログでも実名でものを言っている。狐仮面も狸仮面もない。仮面一つない。その非対称性はどちらかというと、私にではなく、仮面変えの投稿者に不公平ではないかとさえ思えてならない。だが、私にはその不公平を是正する術がない。私は今更仮面をつけるのも時すでに遅しだ。

 仮面舞踏会の夜明けは寂しい。けれど、また明日も会があるさ。いつの間に、やってくる明日よりも、やってくる明日の仮面舞踏会のために、次から次へと仮面を用意する。そうなるのかもしれない。