憲法の上位法、素朴な自然法が語る人権の第一義

 「もし、憲法そのものが人権侵害になったらどうする」、あるいは、「憲法を忠実に守って人権侵害になったらどうする」

 いや、そんなことはありえない。ときたら、それは逃げているということだ。論点のすり替えだ。全ての議論は仮説に基づく。仮説から逃げたら、それは論拠が脆弱だという証拠だ。

 憲法が人権侵害になったら、その憲法は無効だ、少なくとも一部無効だ。人権のなかでも、もっとも基本的な「生命権」すら守られないものであれば、そんな憲法は意味がない。

 憲法は最上位法である。違う。すべての立法には基盤となる根拠が要る。憲法も例外ではない。憲法の基盤は、自然法である。

 「自然法」?聞いたことない?そう、弁護士は語らない。日弁連がもっと語らない。それが彼たちの商売ではないからだ。いやときどき彼たちの商売をぶち壊すからだ。

 「人権」「人権」と叫んでいる法律家たちはあくまでも、実定法下の人権しか語っていない。では、その「人権」の中身は何であろう。「人権」とは、「人間が生きてもつ権利」であって、死者なら「名誉権」があってそれが毀損されても自ら裁判所に行って訴えることはできない。

 故に、「人権」の第一義は、「生命権」である。「生きる権利」である。「自己保存の権利」である。これははるか昔、憲法をはじめとする実定法ができる前にすでにあった権利で、人間の本性や自然の法則に則った権利なのだから、「自然法」によって規定されるもっとも基本的な権利といってよい。

 つまり、そもそも憲法の拠り所は、自然法なのだ。憲法は自然法に拠って立つ。自然法は憲法よりも上位の効力を有するものだ。

 憲法の大家の故芦部信喜教授は、自然法について次のように語っている。「議会といえども侵すことのできない一定の高次法(Higher Law)――これは不可変の自然的正義の法であり、具体的には前国家的・超国家的な基本的人権をいう――を憲法に実定化する一つの基盤」

 前国家的・超国家的、国家が定める憲法よりも高次的である。それがもっとも素朴な自然法なのである。

 故に、「改憲」も「護憲」もただの手法に過ぎない。それ以前の問題、憲法の正当性を問う作業はやはり、国民の生命権が脅かされ得るかどうかの論理的な検証である。

 言ってしまえば、仮に、国民の生命権を戦争によってしか守れないことになった場合、戦争があってしかるべきだ。その場合、戦争は悪ではなく、善なのである。

タグ: