三つ子の魂百まで、味覚矯正「食育」の難しさ

 6月18日(日)、働かない日。2週間の集中研修で疲れた体を癒したい。

 午前11時30分、クアラルンプールのマンダリン・オリエンタルに入る。中華料理で飲茶。ゆっくり飲茶したい。研修生たちとの食事は、食べるもの食べないもの、いろいろ忖度することが多かった。今時の若者はハングリーの時代を知らないので、良い意味でも悪い意味でも食生活が一見して「贅沢」(選択肢が豊富という意味の)になっている。

 妻はもてなし好きなほうで、箸が進まないとみるや、ひっきりなしに食べなさい食べなさいと勧め出す。研修生たちにはこれがプレッシャーになったかどうか知らないが、このマラソン対峙を見ている私もついつい疲弊化する。いや、もう勧めるのをやめなさいと、無理させるなと、最終的に思わず介入してしまう。

 マンダリンで妻と2人で飲茶をしながら、またもや研修生たちの食事の話題が出た。妻は研修生の少食・偏食ぶりに相当悔いが残っているようで、「あの子はもしや、Aが嫌いで、Bが好きだったんじゃないか」と事後の忖度を始める。まあ、それは確かにあったかもしれないが、忖度はもうやめようよと私が繰り返す。

 手作りの出汁がいかに美味しいか、本物の「うまみ」とは何か・・・。こういうことを若い人に理解してもらいたいという妻の願望はよく分かる。私もそうした味覚を鍛え、人間性を豊かに育てる「食育」がとても大切だと思う。ただ、現状とのギャップは楽観できない。

 「三つ子の魂百まで」ということわざがある。「3歳までの食経験は、その人の一生の味覚を左右する」、幼少期の食育が味蕾の成長ぶりと一生の味覚傾向を左右するとよくいわれるように、親の作為不作為が大きな要素をなしている。最終的に教育者であるはずの親自身の価値観や素質、レベルにもかかわっている。

 私自身も決して立派な食育を受けたわけではない。いや、むしろ食音痴だった。20代になってから、「うまいもん食え」と、アルバイト先の社長にきつく叱られ、無理やり社長の食卓に付き合わされた。「君がまずいと思った食べ物、なんで人がうまいといって食べているのか、その理由を考えろ。まずはまずいと思っても、1つ1つ拒否しないで食べてみろ。ゆっくり味蕾をつかって吟味しながら食べろよ・・・」

 社長には感謝している。社長の親代わりの矯正作業。そのおかげで、後日の私は少しずつ食の美味しさに目覚めたのだった。本物の美味に味蕾が瞬時に反応し、頭脳にシグナルを送りだす。この興奮の連続によって幸福を体感するだけでなく、ときにはひらめきが芽生えたりもする・・・。

 長い飲茶が終わると、隣のツインタワーへ移り、今シーズンの最終コンサート。そして、夕食は「亀寿司」で美味しくいただく。

 働かない1日。久しぶりに休日らしい休日でゆっくり充電できた。とはいっても、食育のことはついに頭から離れることはなかった。どんな教育も、まず受け入れる意思と姿勢とはいうが、殊に固定概念よりも身体や脳に付着・定着した本能的な感覚を否定し、新たな感覚を植え付けるほど難しいことはあるまい。