主流と傍流と陸路逆走、私流の適者生存法

<前回>

 読者からあまりにも多く取り上げに値する論点を提示されたが、正直このブログで答え切ることが難しい。断片的なスポットに留めざるを得ない。

 まず、「伝統の破壊者としてご成功なさった立花先生が伝統的な考えに縛り付けられているのはいかがなものかと」という評だが、異議申立てをさせてもらいたい。私は、「伝統の破壊者」という偉大すぎる名に値しない。いや、正反対に私はどちらかというと保守の部類に属する人間だ。

 ただ、私は保守だからこそ、改革が必要だと考えている。改革で時代や情勢に適合できない伝統を排除し、良き伝統を守っていくことをなくして、伝統が根こそぎ革命されてしまう。保守とは決して伝統の死守ではない。改革なくして革命あり。革命を避けるためにも改革が必要だ。これが「伝統」というのものの適者生存だ。

 そういう意味で、私はときどき保守とリベラルの両方からパンチを食らうわけだ。まあ、自業自得ではあるが。

 もう1つ、これは仕事柄、どうしても私はミクロ的な実務面の効用性を重視する癖を持っている。これはブログ記事でも繰り返し強調している。私がマクロ的目線をアピールしながらも、最終的にマクロ的な問題解決を目指していない。無節操と言われてもしかたない。

 読者からよく「正議論」を持ち出されるが、社会全体の正義の規定や実現に私は興味を持たない。ただ現実のFactだけは把握したい、それだけのことだ。主流に反している時もあれば逆流を作るのではなく、傍流を作って密かにそこから上陸して主流の逆方向へ進む、というような適者生存の道もあっていい。

 最後だが、「伝統的な考えに縛り付けられている」という状態ではなく、良い考えであれば、伝統的だろうと前衛的だろうと、取り入れようというのが私の考え方である。

 基本的な立ち位置の確認が出来たので、次回からは本編に入りたい。

<次回>

コメント: 主流と傍流と陸路逆走、私流の適者生存法

  1. 立花さん,ごもっとも。
    そろそろこの手の世間の愚者との対応にけりをつける時期到来。2019の参議院選には十分時間があります。少なくとも全国区での一票は私が入れます。国会には立憲民主党をはじめ、如月氏以上の自覚なき偽善者に事欠かず、論戦のし甲斐があります。ご一考を。

    1.  現有資源の配分にしか興味がなく、「弱=善」を掲げるまさに偽善者がうようよしていますね。

  2. 如月氏のごとき世間に五万といる偽善者に一々丁寧に対応する立花さんの忍耐力にはほとほと感心します。

    1.  いろんな人の心理を読むという練習だと思っています。セミナーの話題や材料にも使わせていただいています。

       現在の経済社会というのは基本的に「価値の創造」と「価値の分配」という2側面をもっている。私は前者、如月氏のような方はまず「パンは増えない」という前提を設けているので後者に属するわけですから、本質的な対立が生まれます。一連のコメント往来では、これが明確になったのです。

       「パンは1つしかない。2つ目は増え得ない」というのは重度の分配志向者です。社会の大半はそういう人だと思います。なので、経済成長期が終わり、価値は僅かしか生まれない時代に突入すると、分配志向者の受難期になります。彼らも自覚しているので、「1%馬鹿ゲーム」と敗者の正義化を図ろうとする。

       この推論を検証しようと、一連の議論を重ねてきましたが、結果はやはり概ね予想通りでした。

  3. 興味深いご回答です。いや、立花先生らしいご回答というべきでしょうね。まさしく、「私がマクロ的目線をアピールしながらも、最終的にマクロ的な問題解決を目指していない」ということなのでしょう。

    1%馬鹿ゲームの物語における、「1個しかないアンパン」というのは、限られた資源を意味するので、2個目が作れるのなら「1個しかないアンパン」という設定自体が無意味です。立花先生はそれでも2個目を作ると言い張るでしょうから、この話はこれまでしておきます。

    1.  「限られた資源」と仰います。その通りです。資源はいつでも限られている。限られた資源から価値を生み出し、価値を増やしていくのが資本主義社会のもっとも基本的な原理です。「1個しかないアンパン」というのは現状にこだわっていたら、パンの争奪戦しかありません。

       そこでもう1つの資源を見落としてはいけません。それは、人間それぞれの知恵です。その資源を活用して2個目のパン、3個目のパン、もっと多くのパンを作り出していく。それこそが資本主義社会ならではの醍醐味です。と、私はそう思いますので、資本主義大好きですよ。

       近い将来の社会、如月さんが仰るいわゆる「1%馬鹿ゲーム」になるかどうかは分かりません。ただ、「馬鹿ゲーム」と名付けて、1%の勝者を馬鹿にしても現実は変わりません。私は出した三択の設問、それ以外に選択肢はあるのでしょうか。つまり、世界を変えるか、自分を変えるか、それとも何も変えずに批判するかの三択です。

       馬鹿な現実を罵るのは、せいぜいの鬱憤晴らしで一時的に気持ちの軽快さが得られるでしょう。相互の同調で傷の舐め合いを必要としている人はたくさんいることでしょう。いや、それこそ8割くらいのマジョリティではないかと推測します。それは個々人の世界観や価値観ですから、正誤はない。

       

  4. 「『伝統的な考えに縛り付けられている』という状態ではなく、良い考えであれば、伝統的だろうと前衛的だろうと、取り入れようというのが私の考え方である。」

    これは非常に素晴らしい考え方であると思いますが、一方で矛盾を抱えやすい主張であり、矛盾が大きければ横暴、詭弁、ご都合主義の誹りを逃れることができなくなります。

    立花先生が常々おっしゃっている上昇志向と、現実には20%(最終的には1%か?)のものにしか豊かになれず、残りの80%(最終的には99%?)が貧困状態になるという事実の関係。

    1つのアンパンを100人で取り合う愚を「1%馬鹿ゲーム」と表現する人もいますが、立花先生から見れば、このアンパンゲームに参加しようとしないものは、怠惰であり、傍観者であり、ルサンチマン的であるということになります。

    しかし、事実として99人が、この1%馬鹿ゲームにて敗れるか、あるいは最初からこのゲームに参戦しないということになます。

    参戦して敗れたものをルサンチマン的とは立花先生は及びにならないでしょうが、結果としては貧困の99%に含まれてしまうことになり、当然のことながら再生産に必要な収入を得られず、子供の代にては両親と同様な教育を得られず、さらに劣化した大衆となってしまいます。

    つまり、ルサンチマンが世の中にあるとすれば、それはこの「1%馬鹿ゲーム」が原因であり、大衆が原因ではないということです。

    それにも関わらず、大衆をルサンチマン的であるとなじり続けるということは、まさしく鏡に向かって罵倒を続ける行為というほかありません。

    マクロ(原因)が「1%馬鹿ゲーム=資本主義」であるなら、ミクロ(結果)がルサンチマンになるのは、必然のこと。すなわち、ルサンチマンとなじるのは、資本主義をなじることに等しいと言えるでしょう。ルサンチマンが独裁主義や共産主義につながるのではなく、資本主義の子供がルサンチマンなのです。

    1.  この議論はすれば、概念の定義からはじまり論拠の提示と展開も含めれば、数万文字でも足りず、ブログでは不可能ですので、いたしません。

       一言だけ、「1%馬鹿ゲーム」という仮説が存在するとなれば、その1%になるように企業や個人のお手伝いをするのが私の仕事です、と、言いたいところですが、気が付けば、1%などまったく過剰な自己評価、いや自画自賛ではないかと。「二八法則」があって、せいぜい20%の勝ち組入りが目標であるというのが妥当ではないかと思います。

       「現実の20%から最終的に1%のものにしか豊かになれず、残りの80%が最終的には99%が貧困状態になる」というデータの推移はどこから出てきたのか、見えていません。「1%馬鹿ゲーム」というのも不勉強ながら初耳なので、ネット検索してみたのですが、全然引っかかりません。「『1%馬鹿ゲーム』と表現する人もいます」と仰っているので、その出所を教えていただけませんか?

      1. 「1%馬鹿ゲーム」ですね。「1個のアンパンを100人で取り合う」という表現が頭に残っていたので覚えているのですが、出所は忘れてしまいました。申し訳ありません。本か雑誌だったかと思います。

        先生に反論する生徒の話で、「先生はいつもクラスメートを仲間だとか、国民は大きな家族のようなものだとかいうのに、こんな1個のアンパンを100人で取り合うような1%馬鹿ゲーム、僕は参加できないよ」という発言だったと思います。

        セリフの一部で出てきた言葉なので、ネットとかでは見つからないかもしれません。

        経済では一人ひとりを、単独の、無関係なものとして扱うことが多いから、資本主義を突き詰めていくと、家族や同胞という考えは崩壊していくのが自然の流れなのかとも思います。そう考えていくと、「資本主義社会」という言葉そのものが矛盾を内包しているようにも感じられます。

        1個のアンパンを取り合う関係の相手と社会を構成したくはないですからね。

        1.  「1%馬鹿ゲーム」の根拠不明ですね。

           それでも仮説として認めましょう。1個のアンパンを取り合う社会になったら、如月さんはどうしますか?①資本主義を倒す活動に取り組む(じゃ、何社会を作るんですか?)。②2個目のパンを作りだす。③どっちでもなくただ罵り続けるだけ。どっちですか、私は②ですが。

          1. これは私が作った設問ではないので、難しいところですが、作者の意図するところでは2個目のアンパンを作れることは前提条件として含まれていないと思います。2個目を作ったところで誰かが独り占めしようとするなら同じことですから。

            もちろん、アンパンはたくさんあることに越したことはないわけですが、何よりも独り占めしようとするものがいる、またそれを是とする制度であるということろが問題なのではないでしょうか。

            あらゆる制度には段階があるわけですから、独り占めにならないような資本主義が作れれば、それが一番かと思います。1%のものが80%の資源を独占してしまうというのは、社会制度の機能不全であると考えます。

            2個目のアンパンが作れないという前提だったが、立花先生はどうなさいますか?1個を独り占めすべく大奮闘して一人でそのアンパンを独占しようとなさいますか?それとも、①資本主義を倒す活動に取り組む、または③どっちでもなくただ罵り続けるだけ。になりますか?

          2.  これは私が作った設問です。あなたは答えられないでしょう。答えたくないでしょう。

             私ですか、私はいままでずっと2個目を作ってきた人生ですからね、ビジネスも然り。これが前提です。前提がなければ、前提を作ってやることです。あなたはそれができないでしょう。だから、1個目に拘っていて配分ルールに文句を言い続け、罵り続ける。

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