「歴史認識」の議論は時間の無駄、認識できぬ認識

 「歴史認識」。――これが国家間の様々な問題を引き起こしている。われわれはどうしても「歴史」という客体に注目し、「認識」という主体を見落としがちである。

 「認識」という言葉はもともと、哲学の概念である。いろんな哲学者が「認識」という概念を「認識」しようとしながらも、完全一致の結果には至っていない。主体の一致性も得られないまま、客体を議論しては意味があるのだろうか。

 さらに複雑なことがある。時代という流動的要素が「認識」を制御する知的枠組みを規定していることだ。ある時代の普遍的な認識が次の時代によって否定され、覆されたりすることもしばしば。この流動性を無視して、1つ前の時代の事物、つまり「歴史」を現時点の「認識」で一致を求めることは所詮無理な話だ。

 現実における「歴史認識」の一致は、一種の合意に過ぎない。当事者同士は利害の一致によって合意したり、利害の相反によって合意しなかったりする。場合によっては「歴史認識」そのものが取引の材料にされる。いや、むしろそういう場合がほとんどではないか。

 「歴史」よりも「現状」に目を向けてもわかるように、「現状」に対しさえ当事者同士が一致の認識を得られない場面も多いのに、数十年前の状態を確定するのはほぼ不可能であろう。こういうことをいったら、「歴史修正主義」のレッテルを張られがちだが、それ自体もまた「認識」の相違に由来するものである。

 ニーチェいわく「事実はない、あるのは解釈のみ」。もちろんこれも一種の「認識」ではあるが、1つだけ明白になったことは、「歴史認識」の多様性の存在である。そして、その多様性を人為的に同一化することは不可能だ。故に「歴史認識」を真剣に議論するほど無駄なことはない。

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