無い袖は振れぬ、生存権は財源に依存している

<前回>

 生活保護減額や年金減額などの問題に、持ち出されるのは、憲法25条の「生存権」問題。

 憲法25条の1項では、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定めている。では、この権利を誰が保障するかというと、国だ。

 同条2項では早速、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と国の義務を規定している。ただ、これは「努力義務」にとどまっている。

 たとえば国がすべての努力を尽くしたにも関わらず、財源が不足し、あるいは枯渇し、25条1項の生存権を全国民に保障できない場合はどうするのか。結論からいうと、どうしようもないのだ。「無い袖は振れない」ということだ。

 生活保護支給額の切り下げ。それに反対する言説のほとんどが財源問題に触れていない。こういう制度は基本的に原資総額に依存している。

 生活保護の引き下げをしない。原資はどこから来るか。消費税を12%あるいは15%くらいにしようではないか。国民の合意を得られれば、いいじゃないか。ベーシックインカムでもいい。これは税を30%に引き上げないと無理だろう。国民の合意があれば、それもいいだろう。

 原資というものは、無尽蔵に天からも降ってこないし、地からも湧いてこない。

 福祉とは諸刃の剣で、高税金、高物価、高生産性、高雇用流動性(解雇自由化)、高論理性(国民の成熟度)とセットでないと実現できないのだ。いわゆる権利と義務の対等。

 高品質の商品は安い方がいい、きめ細かいサービスも安いほうがいい、税金も安い方がいい、雇用は保障したほうがいい、働かなくて金がもらえたほうがいい、政治家は不倫をしない方がいい・・・。

 無理だよ。そういう夢のような理想郷は世の中には存在するか?

■フェイスブックで投稿したら、いろんなコメントが寄せられた。一部抜粋転載する。

 「生活保護問題を見ていると「剥奪」が一人歩きしている気がします。剥奪って本来は自分の能力で得たモノを不法に奪われることであって、そもそも貧困で持ってない物を他の人と同じにすることではないでしょう。むしろそれ自体が貧困の名の下に剥奪しているような・・・」
 
 「財源が増やせなくなったら、大きさを変えないでパイを食べることができる人を減らすか、パイを小さくして食べることができる人を増やすか、という二択ですね。年金では後者を選択しているので、生保ではどちらを取るのか、ということです。法の意義から言えば選択の余地はないのではないか、と思うのですが・・・」

 「資本主義の社会保障は、大企業の利益の余剰の範囲内で行われる。これ、医療を含む社会福祉の大原則です。福祉だけが聖域と位置付けたら、理解できないこと。社会福祉学者にも勘違いしてる人が凄く多い」

 「国民含めて、マチュアな社会には、まだまだ遠いですね。僕はデンマークでも、結構認められている学者ですが、53%の所得税、25%の消費税、質素な生活、これを当たり前に受け入れる人々と交流すると非常に面白い。『世界一の重税についてどう思ってますか?』の答えが『世界一の社会保障をどう思いますか?』と返されて、一本敗けでした」

<終わり>

タグ: