成熟社会と未熟国民、追体験喪失のフェードアウト

 日本社会はいろんな問題を抱えている。そのなかでも、成熟社会と未熟国民の間に存する現状と意識のギャップ問題が大きい。

 量的拡大のみを追求する成長社会を経て、いよいよ経済成長が終息に向かい、成長がピークに達した社会は成熟社会という。そこで、成長社会の体験をもつ多くの国民が依然として成長社会の常識をもったままでいると、さぞかし成熟社会に違和感を抱かずにいられないだろう。

 量的拡大という成長の終息は、資源総量の頭打ちを意味する。すると、必然的に分配面に目線が移る。量的拡大なき社会でのサバイバル環境、つまり質的競争による付加価値の創出という時代の要請に速やかに応えられる一部の者以外の多くの国民が、分配に関心をもつようになり、不公平問題も目立つようになる。

 成長社会体験世代が終息を迎えたところ、では成長社会未体験の次世代なら成熟社会に順応できるかというと、そうでもない。親世代の体験談によって教育されていた次世代は、追体験の喪失をもってその烙印はすぐに消えることはない。そこから次々世代へと徐々に影響が薄れ、フェードアウトしていく。

 問題は時間が解決するだろうが、ただそれは半世紀や1世紀という長い時間がかかるかもしれない。ここ数十年、激痛期間が続くことはほぼ間違いないだろう。

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