私はこうして会社を辞めました(1)―早稲田よりも慶応?

(敬称略)

 私の出身校は、早稲田大学だ。しかし、私は、早稲田よりも、あのライバルの慶応義塾大学が大好きだった。

 早稲田人なら、誰もが、あの「都の西北」を誇らしげに歌い、そして、声が枯れるまで「フレー、フレー」するのが流儀だが、私は、いつも口バックだけだった。

 私は、「先輩」、「後輩」と呼ぶのも、呼ばれるのも、大嫌いだった。名前呼び捨てされるのも、呼び捨てするのも、大嫌いだった。

 私は、野球優勝で歌舞伎町のどぶ池に飛び込む早稲田人を軽蔑していた。

 私は、色気のない(?)早稲田嬢との飲み会をサボって、女子短大合コンに熱を出していた。

 私は、試験にならないと、担当先生の顔さえ分からない、出席率がゼロに近い悪学生だった。

 私は、学校よりもバイト先の不動産屋のバブリーな社長の地上げを手助けするのがすきだった。

 私は、見栄っ張りで日産の愛車を乗り回して、六本木のディスコでワンレン・ボディコン(いずれも当時の名称)と踊りまくるのが得意だった。

 私は、早稲田よりもやはり慶応が好きだった・・・

 なら、お前は慶応に入ればいいじゃん!と怒鳴られたりすることは、何回も何回もあった。

 そんなこと言わなくても特にやっているよ。しかし、私は、慶応を受けても受けても落第だった。最後の最後まで、20歳の年、受かった大学は、「早稲田大学」と「日本大学」の二校だった。迷いに迷った末、「お前はいいかげに大学に入らんか、仕送り止めるぞ」と親の一喝で、早稲田入学が決定となった。

 四年間の大学生活は、あっという間に終わろうとする頃に、就職を考えるよりも、毎日、郵便ポストに入っている会社案内の整理と先輩リクルーターの就職勧誘への対応に明け暮れていた。

 私は、大学生のときからの変人奇人だった。

<次回>