私はこうして会社を辞めました(3)―留年と地上げ屋アルバイト

<前回>
(敬称略)

 トステムから入社内定をもらった。

 しかし、不意な出来事が。卒業直前、気がついたら、単位が足りない。少し足りないのではなく、たくさん足りない。卒業は、絶望的だった。

 トステム人事部の会議室に、私が居た。これからやってくる人事部次長には、どう謝れば良いのか、心臓が止まりそうだった。

 次長がニコニコと入ってきた。あっ、怒ってない。やさしい口調で切り出した。

 「立花君、今年、ダメなら、来年でも良いよ。待ってる、内定はそのまま留保にしておくから。それと、学費は大丈夫か、予定外の出費だろう、なんだったら、当社に奨学金制度があるから、貸し付けようか、無金利で、入社後の分割払い返済、給料天引きで・・・ とりあえず100万円くらいで足りるか?」

 今の時代には、考えられないことだった。私は、涙が出そう・・・。この会社のためなら、一生頑張ろうと、密かに決心した。

 留年に入った。

 当時、私は、二本のアルバイトを持っていた。一本は、台湾企業のビジネス資料の翻訳、もう一本は、H不動産会社の社長黒田氏(仮名)秘書職だった。

 H不動産は、社員10名未満、本社が東京の代々木のオフィスビルにあった。地上げで多くの金を動かす会社だった。社長の黒田は、メルセデス・ベンツの560SELという超高級車を持っている。当時、携帯電話がまだ普及していない時代だった。あの車には、自動車電話がついていた。車両後部に、誇らしげに電話アンテナが立っているのが、当時、国会議員と大会社の社長の車くらいだった。私は、秘書職兼運転手。非常勤アルバイトだが、1989年当時、月給20万円と破格だった。

 昼間の行く先は、さら地の現場視察、法務局での土地謄本取り、金融機関回りが中心。夜は、六本木のクラブ。若僧の私も、おかげで、きれいなおねえちゃんたちと酒を飲むことができるようになった。通い付けのクラブは、有名な芸能人が常連客で、何回も、有名人の酔っ払い醜態を目撃した。もちろん、酔っ払ったら、車の運転ができないから、会社から経費をもらって、白金台の都ホテルが私の常宿になった。

 金曜日の午後、「立花君、車出してくれ」と命ぜられ、私はベンツを正面玄関に乗り付ける。「社長、どちらへ?」、「伊豆!」。

 3時間後、車が到着したのは、熱海の超高級旅館だった。

 「立花君、週末は、ゆっくりと温泉でも入ろう」、温泉といっても、メインイベントは、宴会だった。コンパニオン6名も呼んで、踊るわ歌うわ、ドンちゃん騒ぎの週末だった。

 私にとって、バブル期はやっぱり懐かしかった。

<次回>