私はこうして会社を辞めました(58)―危機一髪の起業

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(敬称略)

24208独立後の売り込み、各地でセミナー巡礼(札幌04年)

 2000年の夏は暑かった。私と妻は、借りていた麻布十番のマンションンから退去し、しばらく神奈川県の逗子にある妻の実家に居候させてもらった。窓外に蝉がミーンミンミンと鳴っている中、団扇をパタパタさせながら中国事業の準備を進めた。

24208_2北から南、セミナー巡礼(福岡04年)

 そして、8月、私と妻を乗せた中国国際航空機が上海に向けて、成田を飛び立った。今回は駐在員赴任当時のようなビジネスクラスもシャンパンもない。最安値のディスカウント航空券だった。さよなら、ニッポン!

 上海では、ロイター上海時代の同僚だった香港人のハーディー・チェンがビジネスの提携話を持ちかけてきた。彼は、そのときすでに独立し、合弁のIT企業を上海で興した。上海駅前のオフィスで事務机を一つ貸してくれた。そこで仕事を始めることになった。提携とは、インターネットの日本語タウン情報ポータルサイトの立ち上げだった。結果的に資金繰りの問題で頓挫し、プロジェクトが失敗した。

 同時に、私が着手したもう一つの事業は、徐々に軌道に乗り始めた。コンサルティング事業を目指す私は、まず、日本語ビジネス情報配信を狙った。コンサルティングといえば、顧客企業の信頼がなければ成り立たない。私のような一個人で、ネームバリュー皆無で顧客企業の信頼を勝ち取るのが非常に難しい。いきなりコンサルティングと言っても相手にしてくれないから、手順を逆にした。まず顧客企業会員誌を立ち上げ、日々接点を持ちながら、徐々に信頼関係を作り上げていく。信頼関係ができた時点で、コンサルティング事業に切り込もうという計画だった。また、自分が他社のビジネスに口出しできるまで、たくさん勉強しなければならないものがある。その学習期間としても都合が良かった。

24208_3独立後の北京出張は安い寝台列車で、朝一番から仕事ができるのも魅力

 現在当社の会員誌は、メインとなる法務レポート(月2回配信)とサブの一般ビジネス情報(平日毎日配信)の2本立てだが、事業の当初は後者だけだった。初めの頃は、外注編集要員1名と私の合計2名で、ソース集めと題材選択から、翻訳、精査、編集、校正、そして配信まで、すべてこなさなければならない。もちろん自宅作業が中心。病気などかかる暇がないし、かかることもできない。1日18時間労働、パソコンとベッドだけの世界だった。

 2001年の旧正月明け、会員誌の日本語ビジネス情報配信で初の売上げが入った、―6000元(月間)。その晩、久々に妻と祝杯を挙げた。それは自分たちが作った商品、自分たちが売って得た収入なのだ。嬉しい、涙が流れるほど嬉しい。というよりも、ほっとした。そのときは、インターネットの日本語タウン情報事業の失敗で、貯金がほぼ底につき、また失業保険の給付も期間満了で打ち切られ、資金ショートに直面していたからだった。危機一髪。そして売上げは、翌月8000元、しばらくすると1万元へと順調に伸び始めた。

 同時に自分の会社の設立にも着手した。社名を定めるのに色々と考えた。情報資源を集結し、知恵を絞り、問題解決していき、顧客に優れたソリューションを提供することで、「Excellence(卓越)=Resources(資源)+Intelligence(知恵)+Solutions(ソリューション)」の英文頭文字を取って、「ERIS」とした。

 2001年10月、私37歳の誕生日を迎えたとき、上海エリス・コンサルティング有限公司が誕生した。

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