私はこうして会社を辞めました(59)―幸せになろう

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(敬称略)

242412002年、独立後初めて自社オフィスができた

 翌年の2002年から、本格的にコンサルティング事業に取り組み始めた。

 「エリス・コンサルティング?あっ、あの情報配信のエリス?お宅、コンサルもやっているの?取り扱い案件事例をまず見せてくださいな」
 「大変恐縮ですが、貴社を弊社の一番目の事例とさせていただきたい」
 「初めてか?事例がないのですね。じゃ、腕試しにまず小さい案件から・・・」
 「ありがとうございます。是非、やらせてください。一生懸命やります」

 馬鹿正直な回答で、逆にお客様が安心したようだった。コンサルティング案件の受注もじわじわと増え始めた。当時、数百元単位のミニ調査も請け負っていた(今は会員向けの日常基本サービスで対応している)。徐々に、千元単位、万元単位と案件が大きくなっていき、今は数十万元単位の制度構築案件が中心となった。コンサルティングに対する顧客企業の一番の不安は、成果物が役に立たないことだ。現在、大型制度案件には、すべて立ち上げ後の一年間無料メンテナンスを付け、制度が軌道に乗ることを見届けるようにしている。

24241_22003年、ロイター上海の「跡地」に「立花商店」が入居した

 2002年春、起業して1年半経過。エリス・コンサルティングは、外灘(バンド)近くの中匯大厦に移転し、ようやく自社オフィスを確保できた。

 そして、翌年2003年、業容拡大に伴い、同じ中匯大厦の602号室に館内移動した。これは、私が夢にも見ていたことだった。この602号室は、何と、元ロイター上海事務所が入居していた場所だった。90年代、私は、同じこの602号室にあるロイター上海で働いていたのだった。同じ風景が見える同じ場所ではあるが、看板が変わっていた。「ロイター」という大企業の看板が外されていた。その代わりに、ここにあるのは、私が3年前に田辺本部長に約束した「立花商店」だった。

 魯迅がいう、「希望とは、地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」。しかし、後ろに逃げ道があってはならない。逃げ道を断って前に新たな道を切り開くのである。もちろん、後ろの逃げ道をすべて断っても、前に進む道だけは何本か用意した方が良さそうだ。

 私は、いかに無知か、コンサルティングをしばらくやると、自覚するようになった。最近、中国ビジネス・コンサルタントを名乗る人が急増している。玉石混交状態だ。「コンサルティング」とは、何か?「情報提供」などの助言機能を挙げる人もいるが、それはあくまでも一つのツールで、コンサルティングは、最終的にほかでなく「問題解決」なのだ。「情報提供」から「問題解決」にいかに持っていくか、私も相当苦労した。コンサルティングは、一見初期投資をあまり必要としない業種だが、実は大きな投資が必要なのだ。それは、「勉強」への投資なのだ。「勉強」にはお金もかかるし、時間もかかる。一部、仕事の受注を割愛することも必要だ。でも、やるしかない。

 そして、2004年、私は、40歳にして、大学キャンパスに復帰した。法学修士とMBAを目標にし、復旦大学と中欧国際工商学院(チャイナ・ヨーロッパ・インターナショナル・ビジネススクール)の2校に、同時に通った。

 ビジネススクールの面接官に聞かれた、「あなた、同時に2校ですか、それに会社経営?身体は持ちませんよ、覚悟はできているのですか」。私は、もう40の人だ。人生の半分は終わっている。一分一秒の争いだ。ためらう余地がない・・・

24241_42007年夏、MBA取得 (中欧国際工商学院 CEIBS)

 「立花さん、MBAとか法学修士とか、中国進出の日系企業は初歩的なもので十分じゃないか、あなたは、マッキンゼーのような会社でも作る気ですか」、ある中堅日系企業の経営者に嘲笑されたこともあった。私は、マッキンゼーにはなれないが、マッキンゼーが持っていないもの、マッキンゼーを超越するもの、一つだけでも持ちたかった。そして、マッキンゼーが解決できない問題を一つだけでも解決する力を持ちたかった。

 コンサルタントの極意は、問題解決だ。問題解決すれば、お客様が幸福になる。だから、コンサルタントは、企業や人を幸せにする職業なのだ。特に人事コンサルタントにとっては、企業の繁栄と従業員の幸福が、最終目標になる。私自身も、サラリーマンとして会社生活の喜怒哀楽を体験してきた。何とかこの体験を生かし、たくさんの企業が繁栄し、また、たくさんの従業員が幸福になることを目指して、がんばっていきたい、このように願っている。

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