サバイバルを美徳とせよ、トリクルダウン理論の真義

 先日、日本で加入している生命保険の保険料自動引き落とし用クレジットカードを変更しようとN生命に連絡したら、「ご本人様のご来店が必要だ」と言われた。なぜオンラインでできないのかと聞いたら、実物のカードを使って店頭のPOSでデータを読み取らないとできない、と。

 海外在住の私はどうしようもないので、そのために日本行きの航空券をついに買った。馬鹿げている。こういう電子商取引の時代に、前近代的な商法ではまさに時代錯誤だ。

 日本は技術的に、これだけのことができないはずがない。簡単にできるだろう。しかし、あれもこれも出来てしまうと、人間は要らなくなる。ただでさえ、労働生産性の低い日本企業では、オンライン化や人工知能化が進むと、企業はリストラせざるを得なくなる。

 先日、北欧で見聞した現実を日本に照らしていえば、3人でやる仕事を、北欧では2人ないし1人でやっているのに対して、日本は、5人でやっている。なんで5人でやるのですかと聞いて、「そうなっているからです」「規則です」と日本人が疑いもなく答えれば、そこはもう没落の道しか開かれていない。

 日本株式会社は、ワークシェアリングしている。故に1人あたりの賃金は上がらないのだ。私は繰り返している。3人でやっている仕事を2人でやれば、2人の賃金が1.5倍になる。1人が仕事を失う。そういう事実を受け入れられるかどうかだ、日本社会が直面する究極の選択。

 それで社会が崩壊するかというと、そういうことはない。1.5倍も賃金が上がった2人の消費が増えれば、新たな商機が生まれ、雇用が生まれる。トリクルダウン理論は日本で通用しないとか、失敗しているとか。そもそも実践されてもいないのだ。解雇できるように労働法制を改めることをなくして企業は何もできない。

 解雇された人間は餓死するのだろうか。必死になって生きるためのサバイバル術を手に入れることだ。生活保障を受けてパチンコを楽しんでいる輩が徘徊するような国では、そういう呑気なことを言っていられないだろう。

 サバイバルを美徳とせよ。

日本人よ頭冷やせ、真の高福祉国家とは何か

 先日のデンマーク旅行、深く感銘を受けた事がある。多くの日本人が夢見て、求めている高福祉国家の内実とは何かという課題だ。

 まず、物価。日本の2倍という高物価。ものによってはさらに高いものもたくさんある。日本人は耐えられるのか。

 次に、消費税率は25%。日本は8%から10%になるだけで悲鳴を上げるくらいだから、話にならない。

 そのうえ、税と社会保険。国民負担率68%。いかがですか。

 さらに、超がつく高生産性。3人の仕事を1人でやる。しかも残業なし。そこまで生産性を求められる。杓子定規をどんどん捨てて生産性の極限に挑む。日本人はできるのか。

 それだけではない。デンマークは解雇自由の国。妊娠中の女性以外、基本的に解雇自由。解雇の理由も本人が聞かなければ会社は言う必要なし。正社員の身分保障を求めるとか、そんなことを言ったら天下の笑いもの。

 さらにさらにある。軍事力強化と徴兵制度。どうだ。そんなことを言ったら、日本の政治家ならクビが吹っ飛ぶ。

 世の中は、何事も、Give and Take。一方的に高福祉を求めても、ないものねだり。よく頭を冷やせ、日本人よ。

少子化は好機、日本は高生産性自立型社会目指せ

 日本は少子化で騒がれているが、少子化に問題があるとは、私はまったく思わない。逆に少子化は、これからの日本にとって好機や幸運以外の何物でもない。

 結論からいうと、企業の少数精鋭化と同じように、国も少子精鋭化すればいい。人工知能が発達し、どんどん職場が奪われる中、労働生産性の向上、そして国民成熟度の向上に取り組むべく、むしろ少子化のほうが都合がいい。

コペンハーゲンの街並み

 先日、デンマークのコペンハーゲンの駅で電車の切符を買おうとしたら、有人窓口がなくすべて自動販売機だった。問題はこれからだ。よく見ると自販機は現金を受け付けない。すべてクレジットカード用になっている。切符販売の省力化だけでなく、現金売上処理にかかるコストの削減も考えられているのだ。

 よし分かったからカードを使おうと私もカードを入れる。すると自販機は「PINコードを入力してください」という表示が出る。「PINコード」って何?よく分からないので、変に操作してカードが飲み込まれたら厄介だ。まず確認しよう。駅員に聞こうと周りを探しても駅員が見つからない。コペンハーゲンの駅は、有人切符売り場もなければ改札口もない。ホームにたった1人の駅員が安全チェックのために配置されているだけ。

 立ち往生しながらも、最終的に分かったことは、取引PINコードが設定されていないカードは、「123456」でも「000000」でも何でもいいから入力すれば、ちゃんと決裁されることだ。日本人的に考えると、えらい不親切な駅だが、でもこれは成熟社会のモデルではないかと私は思った。

 人に頼らないこと。自力でなんとかサバイバルすること。それは国民一人ひとりから理解され、受け入れられなければならない。きめ細かいサービスを望むべきではないということだ。そうしている間に、一人ひとりの国民自身も学習力が向上し、生存競争力が向上する。

 ボケ老人に冷酷な社会と言われたら、まずボケないようにどうすればいいかを考え、実践するのだ。このような高度な自立型の北欧社会に、日本は成りきれるのか、甚だ疑問である。だが、少子化が進めば、ならざるを得ない。さもなければ、国が没落する。それ以外に選択肢は皆無だ。

 そういう意味で、少子化は日本にとって、一服の劇薬でありながらも、再生の好機でもあろう。

政の正と性の正、政治家に何を求めるべきか?

 日本は沸騰中。山尾志桜里氏不倫報道一色。

 私は山尾氏が嫌い。理由は単純に彼女は政策できないし他人の足引っ張りに熱中することだった。彼女は降りるべきだと思う。ただ最終的な降ろされ方は下半身問題だった。

 ならば、国家に多大な貢献をする有能な政治家も不倫で降ろされる可能性が濃厚になる。有能な政治家で不倫をしない保障はあるのだろうか。有能になればなるほど狙われやすいことも自明の理だ。

 仮説。不倫はするが政策で結果を出せる政治家A、不倫しないが政策もできない政治家B。どっちが良?どっちを選ぶべきか?
政治家には、「政」の正も「性」の正も同時に求めるべきだろうか。

 「政」の正を求めるのが国民であるのに対して、「性」の正を求めるのは当事者とその配偶者である。

 政治家も生身の人間であることを忘れてはいけない。不倫問題は左右を超え、超党派的な問題であることも忘れてはいけない。そして、政よりも、性のほうがはるかに分かりやすいこともさらに、忘れてはいけない。

 政に無関心な民が多くても、性となれば、瞬時に1億総評論家化する日本である。

 産経紙の評論は一層激しさを増している。加計問題やパナマ文書問題、五輪招致疑惑問題を持ち出し、一貫して「調査」に熱心な民進党はなぜ今回は黙っているのかと問い詰める。私は保守の部類で産経の愛読者でもある。ただ正直、この論法にはいささか疑問をもつ。

 加計問題、パナマ文書問題、五輪招致疑惑問題はいずれも金銭問題であるのに対して、不倫問題は倫理問題である(ホテル代は公金流用なら金銭問題になるが)。本質的な相違がある。

 保守陣営は、「政治家の倫理問題に首を突っ込むべきか」という原理原則をまず示すことが必要だろう。敵失を叩く前に明日の我が身というリスク管理も考えておくべきだろう。保守陣営の全員が去勢された宦官じゃあるまいし、男女の情事は世の常であることを忘れるな。

 保守陣営も結局、同調圧力があって、山尾氏叩きに一斉躍起している。私はこれに反論を提起したところ、奇異な目線を浴びることもあろうが、縷々論理を説いてきた。

 産経紙まで加勢し、大々的に政治家不倫叩きキャンペーンに躍起している。それは当座、熱狂的な保守ファンに祭り効果をもたせることになろうが、その論理によって、将来的に保守陣営にもブーメラン効果の潜在的リスクを孕ませることになった。

 山尾氏は政治家の資質を備えていない。いずれ脱落するだろうから、不倫問題で落とすのが賢明とは思えない。逆に民進党を利する場面すらある。民進党は、例の山尾氏不倫事件で、党重役の抜擢を断念し、離党してもらったということで、「潔き処理」の前例を作ったのだった。この規範を将来的に自民や保守陣営にも当てはめる。

 故に、「山尾氏は政治家の資質を備えていないだけで、不倫疑惑という偶発的な出来事を借りて、彼女を民進から排除するやり方は、卑怯そのものだ」というアプローチを取るべきではないだろうか。

<ホーチミン>Quan Bui、素朴な家庭料理と米酒が最高

 ホーチミン出張滞在中の楽しみといえば、食。たまに高級ベトナム料理もいいが、食傷気味になりがちで、私は断然素朴な家庭料理や郷土料理を好む。

 今回は、セミナーのあと、「Quan Bui(クアンブイ)」というベトナム家庭料理店へ足を運ぶ。

 店の周りは、日本人街で夜の女性が行き来する場所なのだが、店内はいたって素朴な雰囲気で、地味なカフェというか居酒屋という感じである。私の好みだ。自家製のベトナム米酒が旨い。田ウナギの鍋が珍しいので注文してみた。これは絶品。酒に合う。

 かなり酔っ払った。
 

ボナペティのベトナム航空機内食、ホーチミンへ

 9月7日(木)、移動日。午後15時10分上海浦東発のベトナム航空VN523便でホーチミンへ向かう。

 ベトナム航空のこと、何回か言及したが、なぜか機内食の旨い確率が高い。本日も牛ヒレ肉のステーキは、見事なミディアムレア状態になっていてしかも、柔らかいのだ。上等なレストランと変わらない品質で思わず感動。

 しかも、サーブする客室乗務員は微笑みで、「ボナペティ」の一言。植民統治の賛美ではないが、フランスが残してくれた面影が消えることなく脈々と伝承されていることは、誠に微笑ましい。

 18時10分、ホーチミン・タンソンニャット国際空港到着。19時過ぎ、ホテル日航サイゴンにチェックイン。明日はホテルでセミナー。

上海の常宿、変わったこといろいろ

 9月3日(日)から、月例中国出張。上海での宿泊先といえば、ここ数年はずっと虹橋錦江ホテル(旧シェラトン)を常宿としている。

 今年3月、シェラトンから錦江グループに営業譲渡されてから、何か変化があったかというと、それほど大きな変化はなかったようだ。中華レストランがシェラトン時代の広東料理から北方料理と上海料理の混合に変わったのも、特に不都合はないし、むしろ気分転換になってよかったと思う。

 そうだ。今回の宿泊で気付いたが、客室に新たな装備があった。立派なスマホが備え付けられ、宿泊客は滞在中に無料で使えるという新しいサービス。さらに驚いたのは、中国でなかなかアクセスできない「Google」もなぜか提供されていることだ。

 いいですね。虹橋錦江ホテルに頑張ってほしい。何よりも事務所の真ん前にあるという地の利がある。移動の時間が節約できるし、メリットが大きい。

絶景求めて、中国人の結婚写真ロケは地の果てへ

 先日旅行中のこと。アイスランドの南海岸、観光名所のスコーガフォスの滝の前で、結婚写真撮影のロケが行われていた。よく見ると、案の定中国人カップルと中国人撮影業者。

 時は8月だが、北極圏手前のアイスランドでは、外気温度摂氏10度以下。海岸沿いの風が強く、滝の下は雨状態の水しぶきが降りかかり、体感温度をさらに低くしている。露出の多いウェイディングドレス姿の新婦を見ていると、こっちが思わずぶるぶるして鳥肌が立つ。

 一生一度の記念とはいえ、よくも耐えられるなあと感心する。周りの西洋人観光客も皆愕然として眺めていた。「風邪を引かないように」という日本人の挨拶がもっともふさわしい場面ではないかと痛感する。

 しかし、寒いのが新婦だけだろう。中国の結婚写真業はいまは、熱い。特に、このようないわゆる海外ロケーションフォトが特に人気を集めている。北はこのアイスランド、南は南極まで、全世界のあらゆる景観がロケ地になる。

 一時期流行っていたパリのエッフェル塔やハワイの海辺がもう古い。とにかく並の人間でなかなかいけないような辺境僻地ほど価値が上がる。その絶景写真で周りに自慢できるからだ。

 そして、撮影クルーも決まって中国人。現地で営業ライセンスをもっているかどうかも怪しいような個人業者も少数ではない。何せ国内業者が集客して現地在住の中国人に投げるわけだから、ビジネスモデルとして流動性が高く、当局はとても補足できない。

 華僑ビジネスのネットワークは恐ろしい。私が常にいっているように、「中国市場」でなく、「中国人市場」だ。市場は属地でなく、属人だ。これを理解しないと、中国ビジネスなどはできない。

 ・・・(以下略・ビジネスレポート使用)

飛行機搭乗の車椅子サービス利用、弱者救済の罠

 最近気付いたことだが、飛行機の搭乗客で車椅子利用者が何となく増えているような気がしてならない。

 先日、某航空会社の便には車椅子の列ができて、一般客の通路にまで侵入するほどだった。数えると、12台。私は密かに何人かの利用者に目星をつけて、搭乗後に追跡観測してみた。案の定、機内で普通に歩ける人も数名いた。

 足ギブス姿や松葉杖使用者、あるいは酷く老衰している様子の人は分かるが、見るには何ら支障もない人で車椅子サービスの利用にはやはり一定の証明を求めてもいいのではないかと。

 私自身も3年前左足下駄骨折(第5中足骨基底部骨折)したとき、数回飛行機の車椅子サービスの世話になった。分かったことは、車椅子の利用はイコールVIP待遇ということだった。出入国も保安検査も搭乗もすべて座ったまま最優先され、待ち時間ゼロ。
 
 楽なのだ。ちょっと年を取っただけで楽なほうにいってしまう。車椅子サービスの濫用はないだろうか。これからは多くの国が高齢化社会に突入する。そのうち車椅子利用者がマジョリティーになることもあり得る。

 思うには、医学的証明が困難であれば、車椅子利用の有料化しかない。弱者いじめとかそういう問題ではない。現にコストがかかっているわけだから、その分本人に負担してもらうのが当たり前だろう。社会底辺の貧困者といった弱者救済とは一線を画しておく必要があるだろう。

「被差別弱者化」現象、差別論と棲み分け論

 欧米豪といった地域を旅行していると、たまに、本当にたまにだが、スポット的な場面において、白人からの黄色人種に対する差別を感じるときがある。

 無論その差別とは、直接の言動による顕在的かつ露骨なものではない。その多くは、相手(白人)の表情や語気といった極めて潜在的な部分に感じ取られる「空気」なのである。「空気を読む」というが、それ以前に、空気を読まされるような場面である。

 妙なことに、私はそうした差別に対しそれほど反感を抱くことはない。無意識な感情発露は、その本人でも抑えられないものだからである。そこから、私はある種の確信を得た。つまり差別というものは地球上から永遠に消えることはないだろう。たとえそれを極悪としてどんなに叩こうとも。

 レイシズムには反対である。普遍的価値観としての良識と世界のあるべき姿にも共感をもつ。基本的人権、公民権、すべての法的権利、社会的地位といった部分においては、現今の世界はレイシズム撲滅に向けて着々と進んでいるが、ただ人間の本能的な感覚レベルにおける差別意識は抹殺され得ない。

 フラット化する世界において、差別現象はむしろ拡大し多様化している。たとえば、同一種族・民族のなかの差別は、レイシズムの所産とは言え難い。レイシズムはあくまでも差別の一種に過ぎない。差別というものはもしかすると、人間という生物の深いところに根ざした本能からの所産なのかもしれない。

 人種や出自、性別、財産や経済所得、教育、職業といった従来の差別分野から、昨今の世界では、価値観レベルの差別の拡大が特に際立っている。

 差別には基本的に2種類ある。上下関係に基づく縦軸型差別と、フラットな同一平面における横軸型差別。価値観の相違に起源する差別はそもそも平面・横軸型の差別に属する。厳格に言うと、差別でなく区別なのだ。であれば、必ずしも悪とはいえない。

 さらに利益集団同士の戦いにおいても、自分の被差別の弱者立場を意図的に誇張する現象が多々見られる。差別者が非正義であれば、被差別者は自動的にその対極に立ち正義となり、道徳的優位性を手に入れられるからだ。被差別弱者化は、一種の戦術として使われている。

 平和がよい。戦いはよくない。戦いを減らすためにも、棲み分けが必要だ。融合が善で、分断が悪という固定概念も見直すべき時期がやってきたのではないか。棲み分けとは、上下関係の差別ではない。平面上において平和実現のための区分作業なのだ。

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