芸能人スキャンダルなぜ売れるのか、他人の不幸は蜜の味

 ベッキー、初めて知った。私は芸能関係にまったく無関心で、芸能人がスキャンダルにでもならないと、その名は通常知らないのだ。

 芸能人スキャンダル報道にも、まったく無関心だ。関心があるのは、芸能人スキャンダルがなぜコンテンツ商品になるのかだ。

 芸能人だって生身の人間のだから、一般人と同じスキャンダルくらいあっても何ら不思議はない。放っておけばいいのに、追っかけて興味津々、貴重な時間を費やしてこの手のニュースを読むのが、人生の最大な浪費だと私は思う。

 他人、特にいかにも幸せそうな有名人であればあるほど、外見的な幸と不幸のギャップ(不幸度)が強烈で、その不幸度が高ければ高いほど、見る人自分の相対的幸福度が反比例に向上する。そこで、普段自分の不幸(自己認識)でくよくよしている状態から脱出し、覚せい剤を使用したかのように一時的な安心感、相対的幸福感に包まれる。そんな状態ではなかろうか。

 基本的に、「妬み」「嫉妬心」からきている「他人の不幸は蜜の味」原理だ。

 「スキャンダルに対する異常な関心は、心理的不健康を表す。なぜなら、人の不幸に心から同情できないで、逆に人の不幸に何かしらほっとしたものがあるからである」。社会学者加藤諦三氏がこう語る。

 逆の観点、スキャンダルがニュースになることは、有名人になった証拠だ。「世間をお騒がせして申し訳ありません」。この一言がまさにその現れだ。この一言を言える立場にない「無名人」で、いつまでも有名人のスキャンダルに噛り付いて、覚せい剤的な瞬間幸福感を求め続ける。これも一つの価値観、幸福観であろう。