国家百年の計はなぜ死んだか、参院の民選をやめよ

 過去一時期、政治家を目指そうと考えたことがある。妻が猛反対した。「あなたのような人は、政治家に向いてません。票が集まらないし、当選しても引きずり降ろされるわよ」

 嫌味を言われて気分がとても悪かった。ところが、その後少しずつその意味を理解し、深く納得するようになった。そこで政治家の夢を捨て、マレーシアに住んでゆっくり暮らしながら、経営コンサルタントの仕事を続けることにした。

 私が志向する「国家経営」の合理性はマジョリティーの有権者に受け入れられないものだ。民意への迎合という要素を無視した単なる現実主義論、合理主義論は、民主主義の多数決で排斥されることは明白だ。

 法律の言葉でいうと、「実体」と「手続」という2つの要素がある。正誤を論ずるという「実体」論以前に、民主主義の「手続」(多数決)をクリアすることが先決である。そこで、多数の民にとって耳の痛いことを語れば、まず間違いなく頓挫するだろう。民衆が欲しがっているのは、自分の不遇に対する承認や同情、救済でしかない。いわゆる「庶民的感覚」はまさにそこに立脚しているのだ。

 国家や社会の百年の計という実体論は、民主的手続の段階では勝算がない。「次世代、子々孫々のため」など、美辞麗句を語っても、結局民衆が考えるのは目先の自分と自分の子供の利益だけではないか。いやそれは正論だ。自分や家族を考えることは正論だ。ただ政治家、国家統治者は国家単位の全体利益を考える必要がある。そこで、国益と個益の対立が必ず生じる。

 民衆の頭数で、民意の足し算をするのが民主主義の手続であるが、その個益の総和を鵜呑みにせず、調整したり、時には否定して反対の結論を出したりするのが政治家だ。その作業は政治家にとって、高度な技能を必要とするだけでなく、民衆に憎まれ、痛罵され、唾を吐かれる覚悟もしなくてはならない。それに乗じて政敵が加勢し、攻撃を強め、民意をさらに煽る・・・。

 「良い政治家が出てこない」と嘆いている民は、まさに愚民の典型だ。良い政治家は、愚民に潰されているから、愚民が存在する限り、良い政治家は生まれないし、政治家がどんどん政治屋になり、タレント化する。巨大化する「日本劇場」では、来る日も来る日も「民主主義」という曲目を上演する。

 とはいっても、私は民主主義を信奉している。仕方なく我慢して信奉している。「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」とウィンストン・チャーチルの言葉の通りだ。民主主義は最悪中の最善である。

 もうすぐ参院選だが、私は思う。日本の二院制で衆参両院の差は一体どこにあるのか。参議院が衆議院を監督・牽制する意味で、民意の脱線を是正し、その暴走を食い止めるためにも、参議院は衆議院と同じ民選であってはならないのである。参議院はもともと欧米流の上院に相当し、その第一義は庶民院や代議院ではなく、貴族院、元老院でなければならないのである。

 そうした意味で、参院の非民選化を目指すべきではないだろうか。政治家や学者、ジャーナリスト、経営者、コンサルタント、弁護士といった識者・スペシャリストで参院を作る。参院議員は高い志のもとでボランティアに近い形で働き、僅かな手当てしか支給されず、社会的名誉以外の特権は一切ないという制度である。

 当然、これは夢、はかない夢だ。

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コメント: 国家百年の計はなぜ死んだか、参院の民選をやめよ

  1. 立花さん、 小難しい議論はこの辺で止めにして、ソロソロ本領発揮する時期到来。What and How ご自分で算段すべし。

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