1億総倫理評論家社会、三橋貴明氏事件に思うこと

 三橋貴明氏の「10代妻暴力」と彼の「経済理論」とはどういう関連性があるのだろうか。日本社会って、どうやら「善」と「悪」の単純二元しか存在していないようだ。

 そういっていると、「なんで、暴力行為の悪い奴を弁護するのか」と言われたりする。物凄く短絡的で幼稚な論理だ。村八分でみんなで悪を叩けという農耕社会ではあるまいし。

 なかに、三橋氏の著書などを買うのが即ち犯罪者の支援だという論調も目の当たりにすると、さぞかし日本人の知的レベルはここまで低下しているのかと憂慮せずにいられない。

 私は保守だからといって、三橋氏の肩をもつのではない。以前、山尾志桜里議員の不倫事件の際も、同じことを言っていた。右も左もない、あるのは理性と情緒のみだ。

 三橋氏の経済理論は、学問の議論を介して現実によって検証されるものだ。彼の暴力行為やら逮捕やら釈放やら10代の妻やらとは何の関係もない。

 山尾議員の政治家としての功績は、有権者の検証によって判断されるものだ。彼女の不倫やら不倫相手の職業やら家庭崩壊やらとは何の関係もない。

 山尾氏は事件後も議員当選した。三橋氏は事件後も書物が引き続き売れるようであれば、それは有権者や消費者の選択の結果である。

 人間はすべて完ぺきな神ではない(そもそも神は存在するのか)。完全なる善も完全なる悪もない。政治家だろうと、経済評論家だろうと、芸能アイドルだろうと、一般人とまったく同じ生身の人間だ。本能としての欲望や瞬間的動機に駆られてやってはいけないことをやってしまう場面も想定できるだろう。

 罪を犯した者といっても、調査段階では「推定無罪」のせいぜい容疑者でしかない。警察のプロフェッショナルな捜査よりもなぜか一般人が我先に推理や推測を先行させたがる。そして断罪し、罵倒する。

 経済評論家よりも、日本社会には「倫理評論家」がはるかに人数的に上回っているようだ。そのマジョリティのために日夜ネタを提供しているのはメディアだ。需要があっての供給だ。

 これがいまの日本社会のメカニズムではないだろうか。

<次回>

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コメント: 1億総倫理評論家社会、三橋貴明氏事件に思うこと

  1. 立花先生がおっしゃられることも理解できますが、実際には国民が変わったわけではないと思います。国民とは、いや人間とはもともとそういうものだったのです。

    だが、以前はそのような評論を可能にする術がなかった。ツイッターもなく、ブログもなく、フェイスブックもなく、インスタグラムもなかった。だから、大衆は意見を結集することができず、証拠を集めることもでず、迅速に批判することもできず、ただ「うん、うん」と頷いて首をかしげるしかなかったということでしょう。それが、今はできるようになった、それだけだと思います。(もちろん、それらのツールの存在による意識の変容もありますが)。

    一方、批判される側もそれらのツールの恩恵を受け、最大限利用しているわけですから、プラスマイナスひっくるめて、引き受けるしかないのではないでしょうか?良いとこ取りはできないということです。

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