音楽の裏側(2)~汗をかく指揮者とかかない指揮者

<前回>

 舞台を見終えたところ、古澤氏が指揮者室に案内してくれた。想像以上に立派な部屋だ。大企業の社長室のような殺伐としたビジネスムードが皆無で、むしろ高級ホテルのスイートルームのようだ。暗めの間接照明、上品な応接室、グランドピアノ、それに専用のバスルームまで付いている。

 椅子に掛けられた前日のコンサートで着用していたシャツを取り込もうとする古澤氏を、私は止める。いいんですよ、自然体で。指揮者は汗をかくものだ。

 ふと思い出すのは、作曲家で指揮者でもあるリヒャルト・ シュトラウス(注:ヨハン・シュトラウスとは無関係)が書いた「指揮者十箇条」 。その1番目には「コンサートが終わった頃、指揮者は汗をかいているようなら、何かやり方が間違っているということだ」というのだ。

 楽譜通りに演奏しなさい。そのための指揮者の指図も淡々と楽譜通りにやればいい。空気に力づくで叩きつけたり、ジャンプして飛び上がったり、そういう大袈裟な動作も必要ないという。彼の理論は要するに、古典を勝手に解釈するな、勝手に自分だけのストーリーを作るなということだろう。

 だが、淡々と演奏するのも一種の解釈ではないか。その解釈だけが王道だという根拠はまたどこにあるのだろうか。私には理解できない。古典だからといって、解釈を加えたりストーリーを作り上げたりすることがダメだというのなら、素人の私のような観客もまず排除されることになってしまう。

 古典だからといって、作曲家という原点に置かれた唯一の解釈という仮説は成立するだろうか。スカラ座に長期にわたって君臨した指揮者リッカルド・ムーティは最終的に楽団員の総意で辞任に追い込まれた。彼は楽団員の演奏家たちに解釈の自由を与えようとしなかったからだ。ムーティいわく「私にモーツァルトに対する責任がある」。要するに彼が理解したモーツァルト、彼によってなされた唯一の解釈をすべての人に押し付けようとしたのだった(とはいってもムーティは偉大な指揮者)。

 もう少し話を展開すると、あの有名なカラヤン。目を瞑っていながらも、曖昧な指示しか与えない。彼自身はきっと明確な解釈をもっているのだろう。しかし、あえて明言せずに楽団員に「忖度」を求めるわけだ。カラヤンの古い映像を繰り返し見ていると、彼と楽団員の間の関係が見えてくるだろう。日本風にいうと、まさに「空気を読む」といったところではないか。カラヤンも汗をかいていないようだ。

 カラヤンの対極にあるのはおそらく、バーンスタインではないか。表情で指揮するあの有名な短編もそうだが、手を使わずに指揮するときもあれば、足を使ってジャンプするときもある。これもひとえに彼流の解釈、彼流の表現であるが、そこでもしリヒャルト・ シュトラウスの「十箇条」に照らしてみると、バーンスタインは間違いだらけの指揮と評されざるを得ないだろう。彼はたくさんの汗をかいているのだ。

 企業の経営者はある意味で指揮者に似ている。

<注>写真は特別許可を得て撮影したものです。

<終わり>

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