ボロボロになった服で楽しい人生を

 Tシャツの襟が擦り切れやすい。私は服がボロボロになっても、捨てられずに着続けている。最大の理由は、着古した服の着心地がいいからだ。特に肌に触れるTシャツは着古していると、体の一部になったような感覚があって、捨てられない。

 そうなっていると、愛着も湧く。ただのモノであっても、何だか生きているような気がする。人生を共にする衣服に情が湧き、処分するには酷く罪悪感をもってしまう。

 「あなた、そろそろ新しい服を買いましょう」と妻に勧められても、私は無視。呆れた妻が勝手に買ってきてくれる。ブランド品や高価な服には全く興味がない私の習性を知っているので、地元のパサー(市場)から数リンギット(100~200円程度)の安物を買ってくる。

 私はスーパーやモールのような大店舗よりも個人営業の青空市場が好き。安いのもあるが、一人ひとりの人が生計を立てているうえで、できるだけの応援をしたいからだ。立派なモールで買った服など、代金の一部が高価な店舗家賃に吸い上げられているようなものだ。デベロッパーに金を払う気にはなれない。

 大量生産・大量消費の時代。モノは壊れるまで使わずすぐに買い替える風潮には、同調できない。壊れても修理すればいいのに、昨今の社会では美徳とされなくなったようだ。

 衣服とは、体を覆って保温するという自分のための機能を超えて、見せるという他人のための機能も持ち合わせている。後者も大事ではあるが、度があると私は思っている。これはあくまでも個人の価値判断によるものだ。

 赤道直下の南国マレーシアにきて8年経った。その間、私の衣服代は1万円を超えたかどうか。基本的に、常時Tシャツ、短パンとサンダル姿。ボロボロになったTシャツを今日も身に着けて、楽しく生きている。

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