● 独立の自由
台湾独立は、台湾人の義務と権利の問題だ――。まず、義務。台湾人は相当の犠牲を払って(義務を引き受けて)独立する決心があるかの問題だ。次に、権利。台湾人には前記を決める権利を米国から与えられているかの問題だ。
後者が前者を規定するが、結論は明白だ。台湾人には、「義務」を引き受ける「権利」すらない、つまり「責任」を取る「自由」すらないのだ。中国人に、台湾統一を決める権利があるが、台湾人には、台湾独立を決める権利がない。
台湾人は「自由・民主」を自慢している。しかし、自分の運命を決める自由すらないのでは、そんな見せかけの民主に意味があるのか?日本人にも同じことが言える。台湾も日本も、世界独裁者米国の奴隷にすぎない。民主投票などは、数年一回の学園祭のようなものだ。
● 「自由」とは?
サラリーマンが会社に所属するのは恥ではない。恥なのは、転職の自由も、独立の自由も、副業の自由も、兼業の自由も、プー太郎の自由までも、全て放棄し、所属会社に酷使されながらも生涯奴隷をやり続けることだ。
国家もまた然り。小国弱国が大国の属国になるのは当たり前だ。恥でも何でもない。だが、大国を選ぶ自由、大国を使い分ける自由を放棄するのは、恥だ。日本も台湾も恥を知るべし。
それに比べて、私の住むマレーシアや隣のシンガポール、いや北朝鮮まで、自主権があってはるかに立派な国だ。北朝鮮の場合、トランプが何回も金正恩に会い、板門店の境界線を超え、北朝鮮の土を踏んだのは、まさにその証拠だ。
「自由」とは、国家も個人も同じだ。まず、自らの運命を決めることから、始まる。奴隷は、恥ではない。恥なのは、自由を放棄し、自称主人の真正奴隷だ。「自由」の重みと真意を理解してから自由を語れ、頭の不自由な大衆よ。
● 売国の自由
「親中」とされる日本人や台湾人はしばしば、「売国」と指弾される。それは違う。売国だとしても、せいぜい「転売」といったところだ。いや、それも違う。「転売権」すらない。所有者の同意がないのだから、転売できない。
「売国」という言葉は、処分権を有することを前提としているだけに、高貴な用語だ。濫用はご法度。日本人や台湾人には、「売国の自由」がないのだ。
● 「琉球処分」と処分権
近代史には、「琉球処分」という出来事がある。琉球から清国への朝貢関係を断絶させ、1つの県として日本に統合するために明治政府が、1872(明治5)年の琉球藩設置から1879(明治12)年の沖縄県設置まで一連の行動を取ったことを「琉球処分」という。
当時、琉球は日本による統合に抵抗し、清国へ救援を求めた。つまり、琉球には清国に所属するか日本に統合されるかを選ぶ、自分の「処分権」を持っていたのだった。しかし、弱った清国は琉球を受け入れられなかったため、日本が琉球を統合し、「強制処分」を行った。
処分権とは、所有権のなかでももっとも重要な一部である。「売国」とは処分権の行使であり、所有権の存在を前提とする。「売国」ができないことは、処分権の不在、つまり所有権の不在を意味する。補足すると、娼婦が体を売るのは、自分の体に処分権、さらに所有権をもっているからだ。
故に、売国不能な国は、見せかけの主権国家にすぎない。