● 韓国の大統領と国民
大韓民国の国民に聞きたい――。あなたたちが一票一票で選んだ大統領に、毎回毎回「辞めろ」と怒号する。あなたたちが一票一票で選んだ大統領は、毎回毎回有罪で入獄したり自殺する。あなたたちは人を見る目がないのか?それとも運が悪いのか?あるいは民主主義制度に問題があるのか?
大統領には任命責任があるが、国民に投票責任がないのはおかしくないのか?民主主義の無責任さは、そこにある。ダメな1人を叩き潰してはもう1人のダメな人間を選ぶ。
韓国の選挙は基本的に「国益に最も貢献できる人物」ではなく、「最も嫌われない人物」「最も汚れていない人物」を選ぶ傾向が強い。候補者同士のネガティブキャンペーンが激しく行われ、有権者は「この候補者は汚れていない」と思わせる戦略に惑わされがちである。結果として、大統領が当選後にスキャンダルや汚職に関与していることが発覚し、失望を招くケースが繰り返されるのである。
惑わされ、騙されることは、無知に起源する。プラトンにとっては、民主主義は無知で貧しい人々に迎合することで善良な統治を破壊する、見かけ倒しの発明だった。プラトンは、劇場支配制という言葉で表現している。大衆が永久不変の政治法則に逆らってあらゆることに口を出す資格を得ることで、公共の利益を気取りながら、力のない者を美辞麗句でそそのかし、力のある者が無法者のように振る舞う統治のあり方を想定していた。
プラトンの視座は、民主主義の本質に鋭く切り込んでいる。劇場支配制とは、観客である大衆が舞台に口を出し、劇を操ろうとする構図を指す。その結果、公共の利益を装いながら、大衆は甘言にそそのかされ、一方で権力者は無法者のように振る舞う統治が生まれるという。
「過度の自由が過度の隷属に転換する」(プラトン第8巻 564A)。国民全員に参政権があり、みんなが自由を謳歌しているということと、1人の独裁者が全てをコントロールすることは、正反対に見える。でも、歴史の教訓がいうように、この2つは裏と表である。極端な自由は極端な隷属に一気に転換するということだ。
2400年前のプラトンの予言は、現代社会においても驚くほど的確である。そして1920年代、オルテガは「超民主主義」という概念を提唱し、プラトンの議論をさらに補強した。「超民主主義」とは、大衆が自らの地位を過信し、専門知識や哲学的な洞察を軽視して政治的決定に影響を及ぼす状況を指す。このような状況では、知識と歴史の学びを欠いたままの自由の享受が、社会を浅薄で危険な方向に導くという危惧がある。
哲学と歴史の知識がなければ、自由は単なる空虚な概念となり、やがて暴走を招く。プラトンの警告とオルテガの補足を理解することは、現代の民主主義が直面する課題を再認識するうえで不可欠である。自由とは享受されるだけでなく、責任を伴い、深い理解のもとに育まれるべきものである。この教訓を忘れることが、いかに危険で愚かであるかは歴史が証明している。

● 「中国台北」騒動
訪台した中国の大学訪問団の学生が野球の台湾代表を「中国台北チーム」と呼んだことは、台湾社会で大きな波紋を広げた。なぜなら、「中国台北」という呼称が「一つの中国」を想起させ、台湾で反発を招くためである。一方、大会では国際オリンピック委員会(IOC)の規定に基づき、「Chinese Taipei」という呼称が公式に使用された。
ここで問題となるのは、「Chinese Taipei」の「Chinese」をどのように訳すべきかである。「中国」と訳すべきか、「中華」と訳すべきかという議論である。辞書的な意味を検証すると、「Chinese」とは一般的に「中国製」「中国産」「中国人」「中国語」「中国の」という意味を持つ。この観点からすると、「中華」と訳すのはやや不自然である。「Chinese」を「中華」と解釈するケースは限定的であり、文脈による影響が大きい。
例外として挙げられるのは「Malaysian Chinese」の場合である。これを「マレーシア中国人」と訳すのは明らかに不適である。ここでの「Chinese」は形容詞ではなく、主体となる名詞として用いられているためである。適切な訳語は「マレーシア華人」となり、これは「マレーシア国籍を持つ華人」を指す表現である。この訳出においては、「国籍」と「民族」の使い分けが鍵となる。
さらに、「Taiwanese Chinese」と訳した場合はどうかを検討する必要がある。台湾の正式な国号は「Republic of China(中華民国)」であり、略称は「中国」となるため、「Taiwanese Chinese」自体が矛盾を含む表現となる。むしろ、「Chinese Taiwan」または「Chinese Taipei」の方が文脈的にも妥当であると言える。
ただし、台湾における「脱中国語」を目指す政治的目的がある場合は、この問題は言語的議論にとどまらず、国号そのものの変更が必要になるだろう。現在の国号「中華民国」を維持する限り、「Chinese」という語の政治的・歴史的ニュアンスを完全に排除するのは困難である。この背景を理解しない限り、「Chinese」の訳語に関する議論は根本的な解決に至らない。




