<雑論>民主主義の呪縛とトランプの限界 / 関税大戦争~グローバリズムの終焉と新秩序の胎動 / 日本人の論理的思考と議論・弁論能力の欠如 / 美しく敗れるな、生きて醜く勝て

● 民主主義の呪縛とトランプの限界

 トランプは狂ったように世界各国に関税を引き上げている。メッセージは非常に明確だーー。「米国市場で売りたければ、米国内に工場を作って、米国人を雇いなさい」

 戦略的構想としては、正しい。問題は、アメリカ人が雇われ、高い給料をもらっても、うまく働かない、働けない、働こうとしないことだ。世界トップクラスの先進国になれば、国民は一流になり、3Kどころか、まずはいわゆるローテク産業、労働集約型産業に就きたくない。
 
 最も大きな問題は、自由や権利の塊になった人たちは、勤勉さを失ったことだ。それはもはや、知識集約型産業にまで影響が及んでいる。AIなどのハイテク産業で米国が既に中国に追い越されていることはこれを明確に示唆している。

 故にたとえ産業回帰に成功し、製造業がアメリカ国内に戻ったとしても、全般的に、高価格、または低品質、または両方のMade in USA製品が米国消費者を泣かせ、怒らせることになろう。
 
 最終的にトランプは民意を失う。
 
 仮説として米国は独裁政権だとすれば、国民への強制度を高め、多少成果を出すことも可能だろうが、残念ながら、アメリカは自ら標榜する自由・民主主義制度にがんじがらめに縛られている。

 これが、私の「民主主義の呪縛」理論である。

 別のアングルでみてみると、経済思想の根底から、ものづくりがすでに構造的に淘汰されている。すなわち、資本主義が高度化すればするほど、長期回収型の実業は不利になり、短期的な金融取引が優遇される。10年の投資を待つより、1年で数字を作れる手段に資金が集中するのは、制度の合理的帰結である。

 高収益・短期回収を是とする資本主義の思考様式、そして自由と効率が優先される制度設計と社会文化、これらの相互連関が、製造業回帰を制度的・思想的に不可能にしている。

 たとえトランプが国内回帰を叫び、法的枠組みを整備したとしても、働きたがらない人々と投資したがらない資本によって、それは現実化しない。製造業は、「不採算・不人気・不効率」の三重苦に見舞われた存在として、資本の世界からは既に見放されている。

 ここにあるのは、単なる政策失敗ではない。これは「産業革命の不可逆性」であり、もはや社会構造の時間的進化の帰結である。

 製造業回帰が実現するのは、制度・思想・労働観すべてを再設計できたときだけだろう。しかし、それが可能ならば、すでに我々は「別の文明」に足を踏み入れているはずだ。ゆえに私は言う。製造業回帰はセピア色のセンチメンタル物語である。

 一言で言えば、「ヒト」と「カネ」が動かなければ、「モノ」が作れないのである。

● 関税大戦争~グローバリズムの終焉と新秩序の胎動

 グローバル時代の終焉が始まり、世界は静かに「ブロック経済時代」へと移行しつつある。今や各国は、サプライチェーンの確保と自給自足度の向上を急務と認識し、通商政策や内政経済の優先順位を再編し始めた。

 日本もまた例外ではない。農業と製造業に対する税制優遇、さらには企業のみならず農家や工場労働者といった現場層への個人所得税減免など、国家的レジリエンスを高める策が求められる。もっとも、現実の政治構造において、それを断行する意思と力をもつ政権は、いまだ見当たらない。

 「奉陪到底」——毛沢東の亡霊と背水の陣。米中関税大戦争における中国側のスローガンが「奉陪到底」である。直訳すれば「最後までお供します」だが、この訳ではニュアンスが大きく損なわれる。私の意訳は「勝つまで戦う」である。そこには「背水の陣」、すなわち退路を断って全力を尽くすという中国的戦闘精神が込められている。これは、1953年に毛沢東が朝鮮戦争に際して演説した「完全勝利まで戦う」という言葉を踏襲するものであり、単なる外交用語ではない。

 この文脈において、統制された権威主義体制は、自由主義民主国家よりも強靭である可能性が高い。トランプは「ディール」には強いが、そもそもディールが成立しない構造状況に弱い。そこに彼の文化的限界がある。だが私は、トランプと習近平の両者を応援したい。2人はそれぞれの文明を体現し、衝突と均衡を通じて新たな世界秩序を模索している。

 4月11日現在、トランプの対中関税はついに145%まで引き上げられた。私はこう言い続けてきた。「100%でも、200%でも、300%でも、同じだ」と。モノの貿易における利益率は高くて30%。関税が50%を超えると、価格転嫁しても利益は消失する。100%に達すれば貿易そのものが崩壊し、500%にしたところで事態は変わらない。

 トランプがこれを知らぬはずはない。つまりこれは政治ショーであり、芝居である。インサイダーにとっては株価の高下が儲けの機会かもしれないが、いずれ市場そのものが麻痺する。そして中国は、「1000%でもやってろ」と無反応を決め込むかもしれない。

 それでも「トランプ関税」には意味がある。それはグローバル自由貿易主義の終焉を宣告する一撃であり、世界新秩序の序幕でもある。

 中国が500億ないし1000億ドルの米国債を売却する構えを見せれば、トランプは屈するしかないだろう。米中のせめぎ合いは単なる通商交渉を超え、いまや米・中・露による地球分割の前哨戦へと拡大している。米中が何らかの講和を成立させるとすれば、以下の条件が想定される:

 1. 人民元の切り上げ、またはドルの切り下げ
 2. 米中貿易赤字の一定幅での制限
 3. 関税水準の15~20%前後での固定化
 4. 米国による台湾への軍事的不介入確約を条件とした、中国による米国債の新規大量購入

 その先にあるのは、「米中露大連合」である。この新世界秩序は、米国圏と中露圏の「二極ブロック化」である。

 米国圏:北米、東太平洋、大西洋圏、英国、グリーンランド、オセアニア
 中露圏:ユーラシア、アジア、西太平洋、中東アフリカ、南米

 この地球分割統治の構図において、最も違和感を持つのが日本とイスラエルである。日本は日米同盟を手放すことをためらい、ユダヤ金融もグローバル秩序の崩壊に適応しきれていない。しかし、それは時間の問題である。日本や台湾は中露圏に組み込まれるしかない。

 米中関税合意は、いずれ達成されるだろう。米中が今行っているのは、パイの奪い合いに他ならない。双方が納得できる唯一の解決策は何か。それは――パイそのものを大きくすることである。

 では、その方法は?他国のパイを奪えばよい。それだけの話だ。では、誰から奪うのか?見てみれば、75か国が列を成して、トランプとの関税交渉を待っているではないか。たとえば中国には145%もの関税が課されている。それに比べれば、自国はまだマシだと思っている国々――いわば「カモ軍団」である。これは参照点理論の応用であり、トランプは中国という“参照点”を意図的に設定したのだ。

 他人の大きな不幸を見て、自分の小さな不幸に安堵するという心理が働く。特に日本人に顕著な傾向である。フタを開けてみれば、大国同士による世界に対する収奪構造が浮かび上がる。何度も言ってきたことだ――「米中露大連合」である。

 グローバル時代は「みんなで稼ぐ」時代だった。だが、これから訪れるのは、大国だけが稼ぐ“帝国主義の時代”だ。19世紀以前への回帰である。歴史は200〜300年単位で循環している。そして今まさに、私たちはその転換点に立っている。

● 日本人の論理的思考と議論・弁論能力の欠如

 日本人の多くは、論理的思考や真実を追求する議論・弁論の能力が不足している。

 ​例えば、先日、医師のI氏とFacebook上で議論を交わした際、I氏は「AIは立花さんを代表しない、だからAIではなく、立花さんと議論したい」と述べた。​これに対し、私が「では、AIがIさんの名誉毀損になる発言をしたら、誰の責任か?」と反問すると、I氏は「立花さんを訴える」と回答した。​この論理では、AIが私を代表しないとしながらも、その責任は私に帰属するという自己矛盾が生じている。​

 法廷では、クライアントが自分に有利な論点や論拠を並べたがるが、有能な弁護士は「これは言わないほうがいい」と助言することがある。​矛盾を突かれると、一気に主張や抗弁の論理が崩壊するからである。​このように、論理の整合性が欠如していると、発言を重ねるごとに自己矛盾が露呈し、最終的には自身の主張全体が崩壊してしまう。​

 議論の技術として、正面から対抗せず、まず相手に話させることで、その中から矛盾点や弱点を見つけ出す方法がある。​相手の弱点を突いていけば、自己矛盾により相手が自壊するのは時間の問題である。​

 しかし、日本人の9割以上は、議論も弁論もできず、思考や思索も十分に行えていない。​一般人ならまだしも、学会発表の場でさえ、少しでも鋭い質問をすると、不快な表情を見せる教授がいる。​これは、議論・弁論が「対事」であり「対人」ではないという基本的な理解が欠如しているためである。​

 さらに、日本人はAIを恐れている。​AIが容赦なく冷徹に事実を述べ、本質を曝け出すからである。​これは自己超克の苦しい過程であり、乗り越えれば、人間の質が数段向上する。​

 議論とは何か、改めて考えたい。​「義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義」は、武士道の7つの道徳規範である。​しかし、これらは「善」や「美」に関するものであり、「真」が欠落している。​日本人は哲学に疎く、思考と思索、真を追求する意欲と能力が欠如している。その文化的原点はここにあるのではないか。

 では、善とは? 西田幾多郎は『善の研究』において、「善」とは外在的なルールや勝敗の結果にではなく、自己の内面的経験=純粋経験に根ざすべきだと説いた。 そこにおいて初めて、善は善として、悪は悪として把握される。

 いまの日本人は、内面的な価値判断に基づいて社会や世界を見ているか? それとも、勝者の倫理、すなわち米国の価値観をデフォルト仕様として無批判に内面化し、それを尺度にして社会や世界を捉えているのではないか? このような思考停止――まさに、西田が「自己の喪失」と呼んだ現象そのものである。

● 美しく敗れるな、生きて醜く勝て

 日本人は敗北に美を見いだす。いえ、見いだすというより、敗北を美化する。その美しさは、敗北の味わいを和らげ、自らを一緒に流す温かさを持つ。しかしこの美しさは本当に美なのだろうか?

 敗北を美化する文化は、ときに敗北そのものを直覚しない。それは自分たちの失敗を明示に認めず、物語的に飾り置くことで、アクションを止める。反省も再試もそこには生まれない。これは、相対的な文明の態度であり、負けてもよい、なぜならそれは美しいからだという精神的答えを持ってしまう。

 美しく敗れることによって、成功しないことに欲望の名分を与える。それは現実の効果に対する質問を無効化する。論理ではなく、気分で、もっと言えば精神の安慰で、失敗の伝承が行われる。

 これは「覧賞可能な敗北」の作造であり、効率性も実際性も見ようとしない。こうした文化の箇所で、後悔も評価もあいまいなまま遠ざかにもたらされる。後ろを振り返ることは、美しさを損なうおそれがあるからだ。

 しかし、成功と失敗は、どちらも通過点でしかない。本当に重要なのは、その結果を出したのちの選択である。だが日本社会はそれを思考するのをやめるために、美の話を持ち出す。これはもう、美への執着ではなく、美を持ち出すことで責任を回避し、現実と向き合うことを拒否する、その場凌ぎの衝動でしかない。文化的逃避とは、このことである。

 サバイバルとは、生き残ることである。そこには、美はない。この技術を持っている者のみが、此以後の世界で生き残る。敗北の美学が必要な時代は終わった。現在は、美しく敗れるのではなく、醜くても勝つ技術の日本化が問われている。

 「美しく敗れるな、生きて醜く勝て!」と私が書いた。決してそれで日本人批判しているわけではない。現に、多くの日本人はそう堅実に実践しているのだ。

 日本人の9割が「嫌中」「反中」であるにもかかわらず、1つ不思議なことがある。なぜ、日本では、中国製品のボイコットが絶対に起こらないのか?政治的信条よりも現実的(経済的)合理性を優先している(マルクス:下部構造が上部構造を規定する唯物史観)証左であり、まさに“醜く勝つ”現代的適応行動である。

 日本人は、美しく負けるのではなく、負けてから負け方を美しくすると述べた。太平洋戦争の「玉砕美談」や企業倒産後の「潔さ」という空気など、「敗北を称賛する言説」がほとんど後から付け加えられている。

 敗北を美化して自己欺瞞より、勝利を手にするために泥臭く生きよ。

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