「大陸人の民度が台湾人より高い」とは何か?歪んだ民主主義の精神的崩壊

● 台湾に失われた「余裕」という文明の核

 本日、ウェブセミナーを終えて、某日本人駐在員経営幹部A氏と雑談を交わした。A氏は中国10年、台湾10年の駐在歴をもつベテランである。冒頭からA氏はこう切り出した――「同じ中国人でも、歪んだ民主主義の影響を受けた台湾人のほうが、おかしくなっている。対して大陸の中国人のほうが、よほどまともで、昔に比べて紳士的になった」

 この言葉には、私が繰り返し論じてきた「超民主主義」という構造的病理の反映がある。A氏いわく、「歪んだ民主主義」とは、権利の過剰な主張や感情的な優位の暴走を意味し、かつて私が台湾出張中に経験した高級台湾料理店「青葉」での出来事と酷似しているとのことであった。

 彼はさらに言う。「台湾では、妙な権利意識が蔓延し、人間的な余裕や思いやりが消えている。立花さんの青葉での体験談(参考記事:『台湾(3)~不愉快な思いその二、お客さん出ていけ』)も含め、私も何度も似たような体験をした。中国大陸では、そういった異常な対応はむしろ見られない」。私も、民度という点で、今や大陸人のほうが台湾人を上回っているように感じた。

 A氏のこの発言は、単なる接客の良し悪しという表層の問題を超えて、東アジアにおける「文明の精神構造」の変容を射抜いている。

● 「青葉」体験に見る、権利感情の奇妙な変質

 青葉での体験は、台湾社会における「余裕の喪失」を象徴するものである。開店20分前に雨の中で訪れた客に対し、入口の屋根付き待機椅子にすら座らせず、雨の中に追いやろうとする高級店のマネージャー――その態度に驚愕した私は、マレーシアでの経験と比較して、その対照に愕然とした。マレーシアでは、開店前であっても笑顔で店内に迎え入れ、椅子に座らせ、お茶を出し、メニューを渡してくれる。形式よりも人間関係を優先する文化がそこにある。

 台湾人マネージャーの拒絶反応は、「営業開始前=私的領域」という心理の表出であったと推察される。彼にとって開店前の時間は、自身がまだ「サービス提供者」として顧客の下に置かれる以前の、いわば評価されない安全圏=自分の領分であり、それを侵されることに対して過敏に反応したのである。すなわち、職場であっても「この時間と空間は自分のもの」という疑似プライベート領域の設定であり、その小さな権利感情が顧客との接点を拒絶させた構図となる。

 このような態度は、民主化社会における「権利意識の過剰内面化」の典型である。制度としての権利ではなく、気分としての権利が先行し、社会的役割の履行よりも、自らの心理的快適さが優先される。清掃が来るから邪魔だと告げておきながら、実際には掃除など一度も行われず、単に「今はまだ客に見られたくない」「客として扱いたくない」という、被評価からの逃避と優越感保持がその根底にある。

● 大陸中国の「外面の進化」と台湾の「内面の硬化」

 対照的に、大陸中国の都市部では、接客マナーの水準がかつてに比べて格段に向上している。上海や北京のレストランでは、スタッフの対応は礼儀正しく、融通もきく。これは国家主導の都市文明化プロジェクトによって、市民の外見的行動規範が矯正されてきた成果であり、国家の体面と威信を賭けた「外面の整備」の結果でもある。

 つまり、中国は独裁国家であるがゆえに、市民の表層行動を効率的にコントロールできた。他方で、台湾は自由と民主を制度的に有しながら、それが市民の内面に十分には根付いていない。自由が権利主張へ、民主がポリティカル・コレクトネスの暴走へと変質し、結果として生まれるのが「正しさを振りかざす非寛容」である。制度の自由はあっても、精神の自由を失っているのが台湾の現状である。

 民主主義の理念は、個人を抑圧から解放するものであるはずが、それが信仰化されることで「異なる立場への不寛容」「人間的余裕の排除」へと転化しつつある。自由を守るために不自由になるという倒錯が、台湾の精神風土に徐々に浸透している。

● ナラティブの暴走と「敵味方二元論」社会の危機

 台湾ではいま、「中国=悪」という物語が、あらゆる判断基準を支配している。中国に理解を示すことすらタブーとなり、台湾人自身が冷静に隣国を観察し、事実判断する能力を失いつつある。この傾向は、民主主義国家としての成熟とは逆行している。敵味方二元論に支配された社会は、健全な批判精神を失い、自壊する。

 このような構図は、実は「先進国の衰退」が辿る共通パターンでもある。かつての栄光と優位性を失い、新興国の台頭に直面したとき、先進国はしばしば「道徳的正義の信仰」にすがる。そしてその過程で、制度が理念から乖離し、精神が硬直し、社会が分断される。台湾における民主主義の病理は、まさにこの衰退過程の精神的症状である。

 青葉のマネージャーの態度に現れた小さな私的感情は、社会全体の精神構造の一断面にすぎない。だがその断面は、民主主義が「制度」から「感情」へと逸脱し、個人の内面で暴走しはじめた社会の行き着く先を、明確に示している。我々は、礼儀や親切を制度の外側に追いやった社会に、もはや未来の文明的希望を託すことができるだろうか。台湾におけるこの現象は、文明がいかにして壊れてゆくか、その最前線を我々に示している。

● 民主主義の敗北とその構造

 近年の台湾社会は、目に見えて余裕を失いつつある。台湾人の平均民度が下がったと私が指摘するや否や、なぜか日本人の一部が過剰に反応し、私に対して人格攻撃を始める。そうした態度こそが、余裕の喪失に他ならない。そしてさらに言えば、同病相憐れむ――実に無残で、気の毒な光景である。

 台湾社会における民度低下の背景には、民主主義の敗北という構造的な問題が横たわっている。民主主義の絶対善という幻想が崩れ、独裁中国の台頭によってナラティブの地殻が反転する。結果として、大衆は思考の混乱と精神の崩壊に至る。民主主義に染みついた「権利」という魔物が、「義務」という抑制なしに暴走し、社会の土台を揺るがす。

 そして台湾人も日本人も、独裁権威主義に対して学ぶという知的姿勢を欠いたまま、上から目線の優位性妄想に酔いしれている。これはもはやアル中の症状である。酔いが醒めるとき、現実はあまりにも残酷であることを思い知るだろう。

● 不寛容という自己証明

 台湾人の「平均民度の低下」という私の言論に対し、一定の反発があった。しかし、ここで私が問いたいのは、内容そのものではなく、その反応の質である。台湾は民主主義国家であることを最大の誇りとし、それが世界への「売り」である。だが、もし本当にそうであるならば、批判的言論に対しても「言論の自由」として受け止める寛容性を持ってしかるべきであろう。

 民主主義とは、多様な視点を認め、異論に対して冷静に応答する制度的文化である。ところが、「立花が取り上げたのは一例に過ぎない」「台湾人全体に当てはまらない」などと声を荒げる者が現れる。

 仮にその通りだとしても、「だから何だ」というのが、健全な民主主義の態度であるはずだ。個別事例を挙げて論じるのは、言論活動として当然の枠内である。それを「全体に当てはまらない」と否定しようとする行為こそ、言論封殺の萌芽である。

 「気に食わない言論に過敏に反応し、感情的に排除しようとする」——この反応自体が、かつての台湾にあったはずの余裕と自信を失いつつあることの象徴ではないか。つまり、「民度の低下」という指摘に対する反発こそが、その低下を自ら立証してしまっているのである。

 民主主義は「制度」であると同時に、「文化」でもある。制度だけ残っても、精神が失われれば、その社会は形式的民主主義に堕す。台湾は今、そうした岐路に立たされているように見える。

<次回>

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