● 北京語で「台湾は中国じゃない」と叫ぶ不思議な島
台湾人の多くは、自らを「中国人ではない」と自認しながらも、その文化的・歴史的ルーツにおいて中華文化のルーツを否定しきれずにいる。このねじれた自己認識は、台湾社会のアイデンティティ分裂の根幹を成しており、その混乱こそが近年見られる精神的な不安定さ、すなわち「自信と余裕の喪失」の一因である。
台湾の近代史において、「中華民国」という国号とともに移入された国民党政権は、中国本土からの文化的・制度的枠組みをそのまま台湾に持ち込み、「国語」として北京語(華語)を強制し、教育制度を通じて「正統なる中華文明」の継承者としての台湾人像を植え付けた。特に繁体字の定着が象徴的である。
その結果、台湾人は政治的には中国と距離を置きながらも、文化的には否応なく「中華」の名残を背負わされてきた。今日の台湾人が「台湾は中国とは違う」と語るとき、その主張はもはや政治的な意思表示を超えて、文化的・文明的な差異の証明を求められる段階に至っている。
だが現実には、「台湾らしさ」を制度や言語、宗教や民族によって明確に定義することが難しく、結果として、否定しきれない中華ルーツへの心理的な葛藤と、それを指摘されることへの過剰反応が生じている。
この過剰反応ーー時々ヒステリックにすら見えるーーは、かつての台湾社会にあったはずの寛容さや多元性を蝕み、言論に対する不寛容と内向的な排他性を強化する方向へと向かわせている。
文化的自立が未完成のまま、政治的独立を叫んでも、それは根無し草のスローガンにすぎない。しかし、文化的な土台を築き直すことは、一世紀をかけても困難な作業であり、その作業の進行自体が中国による統一実施を促し、むしろ加速化させている。中国は統一の諸条件を整えるのに、もはや十年も要しない段階に入っている。
この現実を、頼清徳率いる民進党政権も十分に承知している。為政者たちは限られた猶予の中で、台湾や台湾人の未来を考えるのではなく、自らの政治的立場や利益の最大化を図ることに腐心しているにすぎない。理念なき権力者にとって、台湾の真の幸福や経済的利益は眼中にない。
そして多くの台湾人は、この構造と本質を見抜けないまま、「自由」や「民主主義」という耳障りの良い理念の虚像にすがり、内実を問うことのない幻想のなかで安堵しようとしている。その姿はまさに、内から崩壊する文明の典型であり、誤魔化されたアイデンティティの果てに訪れる歴史的報いを予感させるのである。
● 日本人の分裂心理、台湾への「応援」は誰のためか
日本人の「台湾応援」なる情緒的傾向には、しばしば深い自己投影と心理的同一化が潜んでいる。すなわち、台湾を「民主主義の砦」「中国に抗う小さき勇者」として称賛する日本人の姿は、外の他者にエールを送る行為に見せかけて、実は自らの内部にある分裂や無力を慰撫しようとする投影の儀式に他ならない。
日本と台湾は、一見異なるようでいて、実は極めて似た構造的分裂を抱えている。日本人は精神的に「アメリカから独立したい」と願いながらも、現実には米国の軍事・経済・外交傘に依存しきっている。台湾もまた、「中国とは違う存在だ」と叫びながら、言語・制度・国号において中国の延長線上にあるという矛盾を解消できずにいる。
この自立願望と依存現実とのねじれた共通構造こそが、「台湾がんばれ」という応援に奇妙な共感と切実さを与えているのである。共感はしばしば、他者の痛みに対する反応ではなく、「自分と似た痛みを抱えている者への自傷的な共鳴」である。
加えて、この共感の深層には、民主主義という幻想への過剰な誇りと、それが打ち砕かれることへの屈折した怒りと嫉妬が存在する。
日本と台湾は、ともに「民主主義の優等生」として長く自他を律してきた。だが現実には、独裁権威主義を掲げる中国が、経済力・技術・国際影響力において圧倒的な台頭を見せている。その姿は、日本や台湾が心のよりどころとしてきた価値観の「無力さ」を突きつける存在であり、言葉にはしづらい屈辱と、文明的優越感を脅かされたことへの心理的逆襲を喚起する。
したがって、台湾に向けられる声援は、民主主義の名のもとに構成されながら、実のところ「かつての輝き」にすがる二国のノスタルジアであり、超克されつつある自分たちの時代への未練の声でもある。
中国が変化し、乗り越えようとしているものを、日本や台湾は過去の美徳として抱え込んだまま、そこから動けずにいる。この差異が、表向きの価値観の対立を超えて、文明的敗北に対する感情的な苛立ちとなって噴出しているのだ。
ゆえに、日本人の台湾へのエールは、時に理性的分析を欠き、神話的イメージや感情的正義に傾斜しやすい。そして、分裂は美しいものではない。それは美学の基準に照らして、形の整った均整でもなく、統一された物語でもなく、裂けたままの痛みと矛盾を引きずる未完の状態である。
日本も台湾も、国家としての成熟とは呼びがたいこの分裂を内包しながら、外的イメージに化粧を施し、互いを称賛し合うことで安心を得ている。だがその安心は脆い。真の尊厳は、分裂を隠すことでも正当化することでもなく、それを直視し、乗り越える営みによってしか得られない。
応援の声が、自己欺瞞に基づく共鳴で終わるのか、それとも共に分裂を克服する連帯へと昇華されるのか。その岐路に、日台の未来が静かに横たわっているのである。
● 中華民国という呪縛、断ち切れぬ象徴と制度の継承構造
中華民国の建国者である孫文は、自らの理想国家を明確に「中国」と呼び、その革命思想も中国本土における封建体制の打破と統一国家の建設を志向していた。彼の名は「国父」として台湾においても神格化され、その肖像はいまだに立法院正面に鎮座し、法定通貨にも刷られ続けている。これは象徴的に、台湾という政治体が中華民国の法統を完全に断ち切れていない証左である。
加えて、国民党は中国共産党よりも歴史の古い「開国政権」として、民国の正統を自任してきた政党であり、その存在自体が「中華」の継承を体現していた。
蒋介石が操っていたのは、南方大陸人らしい浙江訛りの中国語であったが、皮肉にも現在の台湾における標準中国語(華語)は、北京語により近い、洗練された発音と抑揚を持ち、中国本土の多くの地方語話者を凌駕する「標準語化」を果たしている。
つまり、台湾人が自らの中華ルーツを否定するには、あまりにも制度的・言語的・象徴的な「中華性」に深く絡め取られすぎているのである。
孫文も蒋介石も、台湾にとっては他者ではなく、制度の根幹を形成している「祖型」であり、そこからの決別には文化的革命に等しい覚悟と百年単位の時間が必要とされる。だが現実には、そのような根底的断絶は未だ果たされておらず、表層的な「台湾意識」や「脱中国言説」は、アイデンティティの本質的刷新ではなく、むしろ政治的・心理的反発にすぎない。
名前を変えず、言語を変えず、象徴を変えずに「われわれは中国ではない」と叫ぶ姿は、根源的な否認と現実逃避の構造に他ならない。ゆえに、台湾人が「中国人ではない」と主張する時、それは倫理的信念ではなく、感情的願望としての性格を帯びる。
実体がともなわない否認は、やがて内的な分裂をもたらし、社会全体のアイデンティティ基盤を空洞化させるのである。この空洞化の先に、果たして真の独立や尊厳が成立しうるのか。その問いを正面から引き受ける覚悟こそ、いま台湾が試されている課題である。