「直感」で始まり、「直感」で終わる戦争

● 「直感」で始まり、「直感」で終わる戦争

 世界最強の軍隊を動かす基準が、ついに明らかになった。「直感」である。

 米国のトランプ大統領は、イランとの戦争がいつ終わるのかと問われ、こう答えた。「終わると直感したときだ」。実に明快である。予算も、議会承認も、出口戦略も不要だ。必要なのは、大統領の腹の底から湧き上がる、あの「感じ」だけである。

 開戦の理由も、振り返ればやはり直感だったと言われている。「イランが攻撃してくる気がした」——これで核保有国への軍事作戦が始まった。人類が何千年もかけて積み上げてきた国際法、戦争法規、議会制民主主義、そういった面倒なものは一切スキップできる。なんと効率的な統治システムだろう。

 独裁者と呼ばれる指導者たちも、さぞ羨ましいことだろう。彼らでさえ、一応は「建前」を用意する。「祖国防衛」「テロとの戦い」「歴史的領土の回復」——中身はともかく、言葉による説明責任の形式くらいは整える。

 ところがトランプ氏は、その手間すら省いた。「直感」は説明できない。説明できないものは、批判もできない。これは独裁の進化形、いわば説明責任フリーの戦争経営である。

 責任の所在も、実に巧妙に消える。うまくいけば「俺の判断が正しかった」。うまくいかなければ「直感が変わった」。どちらに転んでも、大統領の直感は傷つかない。戦費は納税者が払い、命を落とすのは兵士たちで、判断するのは腹の底の「感じ」である。

 民主主義とは何だったか、少し思い出してみよう。権力を持つ者が、なぜその決定をしたのかを説明し、それを市民が評価する仕組みのことである。

 ところが「直感です」と言われた瞬間、この仕組みは完全に機能を停止する。評価のしようがないからだ。

 歴史上、戦争の終わりを「直感で分かる」と公言した指導者が民主主義国家にいただろうか。筆者には思い当たらない。それもそのはず、通常の指導者は少なくとも「○○が達成されたとき」という条件を示す。それが嘘であっても、形式だけでも。

 「直感で始まり、直感で終わる戦争」——これを無責任と呼ばずに何と呼ぶのか。世界が固唾を飲んで見守る中、大統領の腹は今日も、何かを感じたり感じなかったりしているのだろう。民主主義は、独裁の一種だと私が言ってきたが、補足する必要がありそうだ。独裁よりもはるかに愚かだ。

● 劇場の幕が下りた日――民主主義という幻想の終わり

 プラトンは二千年以上前に警告していた。民主主義は劇場だ、と。弁舌巧みな者が大衆の感情を煽り、理性ではなく快楽で票を集める。哲人ではなく俳優が国を治める——これがプラトンの民主主義批判の核心だった。

 しかし彼はまだ、甘かった。劇場には最低限、芝居が必要だ。観客を説得する言葉、正当化の論理、敵を悪魔に仕立てる物語。どれほど嘘くさくても、形式だけは整えなければならない。「大量破壊兵器がある」——これも嘘だったが、少なくとも説明しようとした。劇場の演目として成立していた。

 トランプが壊したのは、その最後の一線である。「直感でイランを攻撃した。直感で終わらせる」——説明も、根拠も、議会承認も不要。言葉そのものが放棄された。プラトンが批判した民主主義の腐敗は「言葉の堕落」だった。今起きているのは言葉の消滅だ。劇場が消えた。

 ここで冷静に問い直したい。民主主義とは何だったのか。選挙で選ばれた指導者が権力を行使する——それは独裁の一形態に過ぎない。違いは「手続き」だけだ。そしてその手続きが、むしろ無責任を構造化する。

 独裁者は自分の命運を賭けて判断する。金正恩が戦争を始めれば、負けたとき死ぬのは金正恩だ。だから計算する。慎重に、執拗に。恐怖が判断を研ぎ澄ます。

 民主主義の指導者は違う。判断するのは大統領、命を落とすのは兵士、金を払うのは納税者、責任を取るのは次の選挙で別の誰か——あるいは誰も取らない。判断者と被害者が完全に切り離されている。これは独裁より構造的に無責任だ。金正恩も真っ青の無責任体制が、「民主主義」という美名のもとに正当化されている。

 そして最大の皮肉が訪れる。

 習近平がある日こう言ったとしよう。「台湾が独立する、と直感したから、武力で奪還する」——アメリカは何と反論するのか。「国際法違反だ」「一方的な現状変更だ」「根拠のない侵略だ」。しかし習近平はただ一言で切り返せる。「トランプと何が違うのか、説明してみろ」説明できない。構造が完全に同じだからだ。トランプは習近平に、歴史上最も強力な先例を無償で提供した。「直感による武力行使」という先例を。

 それでもアメリカ民主主義を崇拝し続ける人々がいる。「法の支配」「ルールに基づく国際秩序」「民主主義的価値観」——呪文のように唱え続ける知識人たちは、今、何を考えているのか。おそらく沈黙している。

 沈黙の理由は二つしかない。気づいていないか、気づいていて言えないか。信仰は反証に強い。どんな現実が突きつけられても、崇拝の対象を守る理屈を探し続ける——それが信仰というものだ。

 プラトンは民主主義を「劇場」と呼んで批判した。しかし劇場には、まだ救いがあった。芝居には脚本があり、言葉があり、説明責任の形式があった。観客が退場する自由もあった。今、その幕が完全に下りた。芝居も、言葉も、説明も必要ない権力——それはもはや民主主義でも独裁でもない。むき出しの恣意だけが残る。

 プラトンが見たら何と言うだろうか。おそらくこう言う。「私が警告したのは、劇場の腐敗だった。まさか劇場そのものが不要になるとは思わなかった」

● トランプの「直感戦争」と民主主義の三つの試験

 私の民主主義批判に対する反論は、少なくとも「実体・手続・歴史的事実」の三点で行う必要がある。では、今回のトランプの「直感によるイラン攻撃」は、この三点に照らしてどう見えるのか。結論から言えば、この三点をほぼすべて揺るがしている。

 第一に、実体である。
 国家が戦争を始めるとき、本来は国家安全保障上の明確な根拠が示されるべきである。脅威評価、同盟関係、軍事目的、終結条件などである。しかし「攻撃してくる気がした」という直感が理由であれば、政策判断としての合理性は説明されない。国家の最も重大な意思決定が、分析ではなく感覚に依存していることになる。

 第二に、手続である。
 民主主義の正当性は手続にあると言われる。議会承認、説明責任、公開討論などである。しかし直感が根拠である以上、議論の対象が存在しない。説明も検証も不可能になる。結果として、制度は存在していても機能しない。手続は形式として残り、実質は消える。

 第三に、歴史的事実である。
 アメリカの戦争史を振り返ると、この問題は今回に限らない。ベトナム戦争、イラク戦争など、多くの戦争が後に「誤判断」あるいは「誤情報」に基づいていたと評価されている。民主主義国家であっても、重大な戦争判断が誤る例は繰り返されてきた。歴史は民主主義の判断能力を必ずしも裏付けていない。

 この三点を並べてみると、民主主義の優位性を支える論拠は想像以上に脆弱であることが分かる。実体として合理的判断が保証されているわけでもない。手続が必ず機能するわけでもない。歴史がその優位を証明しているわけでもない。今回のトランプの「直感戦争」は、民主主義という制度の弱点を、極めて分かりやすい形で露出させた事件であると言える。

● 戦争責任の構造、民主主義のもう一つの問題

 民主主義批判をめぐる議論では、「実体・手続・歴史」の三点を挙げてきた。しかしもう一つ、極めて重要な論点がある。それは戦争の結果に対する責任の構造である。

 独裁国家の場合、戦争の失敗は統治者本人の生死に直結する。習近平が戦争に敗北すれば、政権崩壊だけでなく本人の政治生命も危うくなる。場合によっては身体的な安全すら保証されない。金正恩であればなおさらである。戦争は、文字通り自分の運命を賭けた判断になる。この構造は、統治者の判断に強烈な抑制をかける。戦争を始めるということは、自分の命運を賭けるという意味だからである。だから独裁者はしばしば執拗なほど慎重に計算する。

 一方、民主主義国家では構造がまったく異なる。戦争を決定するのは大統領である。命を落とすのは兵士である。戦費を負担するのは納税者である。そして判断した大統領自身は、任期が終われば政界を去るだけである。トランプが戦争判断を誤ったとしても、大統領任期が終われば政治責任は曖昧になる。三年後に任期が終わるだけであり、個人の生死に直結するようなリスクは存在しない。

 つまり民主主義では、判断する者と被害を受ける者が制度的に分離されているのである。当たればデカい。外しても無傷か軽傷ですむ。この構造は、責任を拡散させる。判断のコストは社会全体に分散され、判断者自身は限定的な政治的損失しか負わない。結果として、戦争判断のリスク感覚は弱くなる。

 独裁は危険だと言われる。しかし少なくとも戦争という極端な意思決定においては、独裁者は自分の運命を賭けている。民主主義の指導者はそうではない。この責任構造の差は、制度比較を考えるうえで無視できない論点である。

タグ: