敵を飼う者たち、左右偽物同士の相互承認ゲーム

 対立する偽物同士が、互いを本物と呼び合う。よくできた喜劇だ。

 偽左は相手を「ネトウヨ」と呼ぶ。偽右は相手を「リベラル左翼」と呼ぶ。罵倒のつもりが、せっせと相手を一人前に仕立てている。雑魚では都合が悪い。敵は強く、極端で、単純でなければならない。そうでないと、自分の戦いが成立しない。

 こうして出来上がるのは、敵を倒す物語ではない。敵を飼い続ける構造だ。殺したら困る。消えたら自分も消える。戦っているふりをしながら、互いの存在を必死に延命している。出来の悪い共依存だ。

 勇ましく中国と殴り合う芝居と、「戦争が来るぞ」と震える芝居。演目は違うが脚本は同じだ。どちらも動員のための演出で、どちらも観客の拍手で完結する。中身は空洞。思想はとっくに退場している。残っているのは様式だけ——政治という名の参加型イベント。

 本物の右とは何か。三島由紀夫が最後のサンプルだろう。コストを無視してでも貫く。それがイデオロギーだ。逆に言えば、損得を計算した瞬間に、それは信念ではなく手段に落ちる。

 だから今ある左右の大半は、信念ではなくポジションだ。支持を集め、仲間を囲い、敵を仕立て、自分の席を守る。合理的で、平凡で、そして退屈な営みだ。

 記号だけが残った戦場で、偽物たちは今日も忙しい。互いを生かすために、必死に戦っている。

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