● 夕陽の漁港へ、第7ラウンド
韓国旅行4日目の夕方、第7ラウンドがやってきた。今回の旅の前半、「魚の部」の最終ラウンドである。向かった先は大浦港(대포항=テポハン)。束草の中心部から少し離れたこの漁港は、観光地化されてはいるものの、どこか素朴な空気が残っている。白と青の小さな漁船が静かに並び、背後の緑の丘が夕陽に染まり始めていた。

昼寝から目覚めた体に、潮風がゆっくり絡みつく。港の岸壁を歩きながら、ふと気づく。今日という一日は、なんと振れ幅の大きな一日だったのかと。午前10時、私は煙だらけの食堂で、焼き魚をつつきながら焼酎を呷っていた。隣の韓国人たちの視線には、確かにこう書いてあった。「こんな時間から飲むのかよ。雑な日本人だ」。しかし、その「雑」の快感に浸っていた人間が、今は夕陽の港を見つめながら、なぜか静かに海を眺めている。
港の一角に、名も知らない海鮮の店を見つけた。水槽にはヒラメやタコが泳ぎ、色とりどりのメニューボードが並んでいる。巨大な市場と無数の店が並ぶ中で、私が選んだ基準は、味でも評判でもなかった。夕陽がもっとも美しく当たり、もっともセンチメンタルな気分に浸れそうな店――それだけである。こういう店は、理屈で選ばない。空気で決める。

● 名も知らぬ店の幸福
テラス席に陣取り、夕陽を真正面から浴びながら、アワビの刺身盛り合わせとタコの薄切りを注文した。そして、もちろん焼酎である。アワビは貝殻の上へ無造作に盛られ、中央には鮮烈なオレンジ色のホヤが鎮座している。あの独特の磯臭さは、好き嫌いが激しく分かれる。しかし韓国の港町では、むしろ「あれこそ海の味だ」という扱いを受ける。

洗練された美食とは逆方向の、荒々しく、少し危うく、海そのものを凝縮したような味だ。タコは白と赤紫のグラデーションをまとい、夕陽を浴びてやけに美しい。東京のどんな高級店でも、この光景、この風、この潮の匂いまでは再現できない。
焼酎を口へ運びながら、ぼんやり港を眺めた。漁船が静かに揺れている。潮風がゆっくり吹き抜ける。周りのテーブルでは韓国人の家族や友人同士が笑いながら魚貝を食べ、焼酎を飲んでいる。どこにでもある、ただの港の夕方である。

なのに私は、なぜか急に胸が締め付けられるような感覚を覚えた。そして気づけば、知らぬ間に涙が溢れていた。理由は自分でも分からない。悲しいわけではない。感動したというのとも少し違う。ただ、胸の奥に沈殿していた何かが、夕陽に照らされて静かに溶け出していくような感覚だった。
● 「雑」の奥に潜む「純」
今回の旅で、私はずっと「雑」を求め、「雑」を見てきた。煙、焼酎、ざわめき、焦げ、行列、熱気。韓国人たちは荒っぽい。声も大きい。感情も露骨だ。競争も激しい。市場では大声が飛び交い、食堂ではアジョマが豪快にハサミを振り回す。昼間の韓国は、雑草の生命力そのものだった。
しかし、大浦港の夕陽の中で、その「雑」の奥に潜んでいたものが、静かに顔を出してきた。「純」である。

韓国人は、夕陽、港、別れ、故郷、母親、初恋――そういうものに異常なほど弱い。だから韓国ドラマは、すぐ泣く。日本人から見ると、「そこまで感情を出すか」と思うほど、情感を前面へ押し出す。港町文化もその延長なのだろう。港は単なる漁港ではない。「誰かが去った場所」であり、「誰かを待ち続ける場所」でもある。
なぜ「釜山港へ帰れ」のような歌が、何十年も韓国人の情感に残り続けるのか。その理由が、この夕陽の中で少しだけ分かった気がした。港には、時間が沈殿している。戻らない時間。会えなくなった人。海の向こうへ消えていった者。そして、帰ってこない船。韓国人の「ハン(恨)」と「純情」は、港に溜まるのである。
私はふと思った。韓国人は、昼間は「雑」によって生き延び、夕方になると「純」によって自分を癒しているのではないかと。あの騒がしい市場の人間たちが、夕陽の港へ立つと急に演歌的な情感へ沈んでいく。その落差が、韓国という国の妙な中毒性を作っているのかもしれない。

● 雑草の純情
昼間は、煙だらけの食堂で魚を焼き、笑い、怒鳴り、競争し、焦げた魚を焼酎で流し込む。しかし夕方になると、港の夕陽を見ながら急に郷愁へ沈んでいく。この感情の振れ幅こそが、韓国文化の核心なのだと思う。
日本は、感情を整理し、均質化し、静かに抑える方向へ進んだ。しかし韓国は、感情を極端なまま残した。だから、「雑草の生命力」と「純情演歌」が、同じ風景の中に共存している。
私は今回、その両方に感染してしまったのかもしれない。
タコを一切れ口へ入れ、焼酎を流し込む。夕陽はさらに傾き、港全体がオレンジ色へ染まっていく。漁船の白い船体が赤く光り、水面がゆらゆら揺れている。その瞬間、ふと思った。

「雑」と「純」は、対立しているようで、実は対立していないのではないか。ヘーゲルなら、おそらくこう言うだろう。正(純)と反(雑)は、互いを否定し合いながら、より高次の統合へ向かう、と。
純だけでは、人間は窒息する。雑だけでは、人間は壊れる。だから人は、その両方を必要としている。昼は雑に生きる。夜は純に泣く。韓国という国は、その矛盾を整理しないまま、同時に抱え込んでいる。そして私は、大浦港の夕陽の中で、その弁証法に巻き込まれていた。雑草とは、単に生命力が強い植物ではない。踏まれ、汚れ、焦げながら、それでも夕陽を見て涙を流す存在なのかもしれない。
前半「魚の部」、第7ラウンドにして完結。さあ、旅の後半が始まる。




