● 最終日、第12ラウンドへ
5月7日、韓国出張の最終日。夕刻5時台、第12ラウンドへ向かった。場所はソウル市内、Jinmi Eonyang Bulgogi(진미언양불고기)。看板こそ堂々たる韓国語だが、店内に英語も日本語も通じない。完全なローカル肉屋の焼肉店である。翻訳アプリを片手に、サバイバル方式でオーダーを乗り越える。言葉が通じない分、かえって場の空気がリアルで良い。

入口を入ると、まず巨大な肉ケースが目に飛び込んでくる。ピンクのライトに照らされた韓牛の塊。赤身、脂、断面、霜降り。その姿は、もはや精肉というより工芸品に近い。日本なら高級焼肉店は、肉を奥へ隠し、「完成品」として客へ出したがる。しかし韓国は違う。むしろ見せる。「今日はこれを食え」という自信を、最初から前面へ出してくる。

店主らしき人物が、誇らしげに肉を見せてくれた。言葉は通じない。しかし、自信だけは痛いほど伝わる。チャックロイン(肩ロース)、サーロイン、ハラミ。切り出した直後の断面は、霜降りの密度が尋常ではない。100~130gで5万〜7万ウォン台。韓牛のプレミアム部位として、価格も堂々たるものだった。
しかし、今回もっとも印象に残ったのは、その高級肉ではなかった。
● シグネチャー料理の謎
今夜最大の発見は、メニューに★印でマークされたシグネチャー料理――「ジンミ彦陽プルコギ(진미 언양불고기)」だった。価格は200gで3万7000ウォン。高級部位より明らかに安い。そして実物が運ばれてきた瞬間、私は少し混乱した。

ミンチに近い。細かく刻まれた混合肉、言ってみれば「雑肉」の塊。霜降りサーロインと並べれば、見た目の格落ちは明白である。日本人の感覚なら、「松竹梅」の「梅」に相当する、端材・削ぎ落とし肉の集合体に見える。なぜ、この店は、もっとも安価に見えるこの料理を「シグネチャー」として押しているのか。
ここで私は、今回の旅全体を貫いていた「雑」と「純」のテーマへ、再び引き戻された。
● 韓牛の「純」
運ばれてきた韓牛そのものを見ても、私は以前から、日本和牛との違いを強く感じていた。日本和牛は、時に「純化しすぎる」。霜降りを追求し、柔らかさを追求し、均質性を追求する。その結果、「これは肉なのか、脂なのか」という領域へ入っていくことがある。もちろん、それは日本的美学なのだろう。精密化、均質化、完成度。その方向性自体は極めて日本らしい。

しかし韓牛は、そこまで行かない。肉感を残す。繊維を残す。弾力を残す。粗さを少し残す。つまり、「生命」を消し切らない。私はむしろ、その方が好きだった。しかも、この店は「高級感」を過剰演出しない。肉ケースを堂々と見せ、客はそれを眺めながら食う。店内も清潔だが、妙に静まり返っているわけではない。生活の延長線上にある高級肉文化、という感じなのだ。
ここには、日本的な「過剰サービス」より、「良い肉をちゃんと食わせる」という一本芯が通っている。
● 「雑」と「純」の逆転
しかし、もっと興味深かったのは、彦陽プルコギの存在だった。彦陽プルコギ(언양불고기)は、慶尚道・彦陽地方に伝わる伝統料理である。牛肉を細かく刻み、梨・にんにく・醤油ベースのタレに漬け込み、炭火で焼く。つまり、「最高級部位をそのまま出す料理」ではない。むしろ逆だ。
肉を混ぜる。刻む。再構成する。火とタレで完成させる。つまり、「素材の純度」ではなく、「料理としての完成度」を追求する文化なのである。
ここに、日本と韓国の価値観の違いが見える。日本は、「原型」を崇拝する。部位、等級、希少性、A5、ブランド。つまり、「素材そのもの」の純度を競う。一方、韓国は違う。どう焼くか、どう混ぜるか、どう食わせるか。そこへ価値を置く。多少雑に見えても、混ぜても、叩いても、焼いても、最終的にうまければいい。だから、削ぎ落とし肉の集合体ですら、「店の魂」として看板商品になり得る。
そして実際、これがうまい。炭火で焼かれると、表面が香ばしく固まり、中から脂と肉汁がじわっと出てくる。細かい肉だからこそ、タレと炭火の香りが全体へ均等に回る。一枚肉とは別方向の完成度なのだ。

私はここで、「雑」と「純」が反転する瞬間を見た気がした。日本人的感覚では、「雑肉」に見える。しかし韓国では、それを再構成し、一つの料理として純化する。つまり韓国は、「素材の純」を絶対視しない。その代わり、「料理としての純」を追求する。
今回の旅で、私はずっと韓国の「雑」を見てきた。港町の煙、焼酎、行列、ざわめき、雑草の生命力。しかし旅の最後へ近づくにつれ、逆に別のことが見えてきた。
韓国は、意外なほど「純」を大事にしている。
肉なら肉、港なら港、感情なら感情。対象を極端に純化しようとする。だから韓国人は、肉に異常な執念を見せる。焼肉屋へ行くと、「今日はどこの牛か」「どの部位か」「炭火か」が細かく語られる。港町では、夕陽と焼酎と演歌へ全力で感情移入する。つまり韓国は、「雑な社会」の中に、「純な情念」を強く抱えている。
逆に、日本の方が、ある意味では「雑」に見える瞬間がある。例えば日本は、何でもサービス化する。効率化、マニュアル化、チェーン化、均質化。その結果、本来は「純」だったものへ、次々と余計なものが混ざっていく。
肉そのものより、「A5」「ブランド」「ランキング」「接客品質」「映え」が前へ出る。旅館もそうだ。本来は温泉と静けさを味わう場所だったのに、気づけば「おもてなし総合サービス業」になっている。つまり、日本は「純」を徹底的に磨き上げた結果、逆に多機能化し、「雑」になっていくことがある。
韓国は逆だ。社会そのものは雑草的で荒っぽい。しかし、好きなものへ入ると、異様に純化する。だから韓牛も、港も、焼酎も、どこか一本芯が通っている。
● ユッケ、焼肉、そして翻訳アプリ
食事を振り返る。まずユッケ。鮮やかな赤身肉の中央に卵黄が乗り、松の実と胡麻が散らされている。生肉への自信が、そのまま皿に出ていた。

続いてチャックロイン。炭火で焼かれた断面は、美しい焼き色を帯びる。ローズマリーの香り。シンプルな塩だけで、肉の質がそのまま伝わる。そして最後に、ジンミ彦陽プルコギ。エノキと大根スライスと共に網へ載せると、タレが炭火へ落ち、煙が立ち上る。その香りは、「格」とは無関係の、純粋な食欲を刺激するものだった。

言葉は最後までほとんど通じなかった。しかし、不思議と困らなかった。結局、人間は、完全に整理された世界だけでは生きられないのかもしれない。少し不便で、少し粗く、少し雑で、しかし妙に純粋。その矛盾を抱えているからこそ、人はそこへ惹かれる。
韓国雑草の旅、最終盤。私は、かなり深いところまで、この国に感染してしまった気がしていた。




