韓国雑草の旅(12)~マレーシア航空67便――雲の上のサテ、「親日幻想」と東アジアの現実

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● 雲の上の雑草飯

 5月8日、午前11時過ぎ。マレーシア航空MH67便が仁川空港を飛び立った。

 韓国雑草の旅、いよいよ帰路である。窓の外に滑走路が流れ、やがて海が広がり、雲に消える。旅というものは、目的地に着いたら始まり、空港へ戻ったら終わる――そんな単純な話ではない。むしろ帰りの機内こそが、旅の「消化器官」だ。頭の中に放り込んだ雑多なものが、高度一万メートルの静けさの中で、ようやく形を持ち始める。

 そして食前のスナックサービスが来た。サテである。

 マレーシア航空に乗る大きな楽しみのひとつが、これだ。串に刺さった鶏肉と牛肉、甘いピーナッツソース。マレーシアでは屋台でも食堂でもどこにでもある、庶民の食べ物だ。決して高級ではない。日本の焼き鳥のような精密感もない。タレは甘ったるく、香りは強く、容赦がない。「雑」な食べ物だ。しかし、その雑さが妙にいい。韓国の路地で食った焼肉と、どこか同じ匂いがする。雑草である私だからこその親近感、なのかもしれない。

 ふと思った。韓国の食文化を称えると、「嫌韓」の日本人がすぐ拒否反応を示す。しかしサテには反応しない。なぜか。マレーシアは「親日国家」だという感覚が、どこかに刷り込まれているからだろう。――しかし本当に、そうなのか。

● 「ルックイースト」の終焉、あるいは正直な更新

 「ルックイースト政策」を知らない日本人は少ないだろう。1981年、マハティール前首相が打ち出した国家戦略。日本と韓国の経済的成功に学び、マレーシアの近代化に活かすという構想だ。当時の日本は圧倒的な成長国家だった。学ぶ価値があった。だから学んだ。それだけの、実にシンプルな話である。

 しかし今や、その内実は変質している。2023年12月、訪日中のアンワル首相が朝日新聞のインタビューに応じ、ルックイーストの対象には中国も含まれると明言した。内容自体は以前からの実態の追認にすぎない。しかし、日本のメディアに向けて、はっきり口にしたという事実は重い。

 詰まるところ、こういうことだ。マレーシアは日本から学べるものが相対的に減った。中国はすでに日本を追い越した。だから中国から学ぶものが増えた。極めて現実的な、ただそれだけの話である。

 では、日本側に「ルック中国」はあるか。ない。正確には、口に出せない。「中国に学ぶ」という言葉自体が、日本社会では半ば禁句になっている。中国に追い越されたという現実を、直視することができない。没落貴族のプライドとでも言おうか――傲慢さを通り越して、どこかセンチメンタルなムードが漂っている。

● マハティールは「親日家」ではない

 マハティール氏といえば、ルックイースト政策を掲げ、日本との深い関係で知られ、「親日家」として語られることが多い。

 しかし、私はそう思っていない。氏は愛国者である。国益のためなら親日にも親中にも豹変できる、徹底した現実主義者だ。時代的に日本から学ぶことが国益に資したから、ルックイーストを取った。それだけの話であって、日本への特別な感情などではない。実際、氏はマレー人社会に対して「華人から学べ」と繰り返し発言している。2021年には南洋商報でこう言った。

 「マレーシアでは大多数のマレー人が貧しい。しかし大多数の華人は富裕だ。華人は4000年の優れた文化、知恵と勤勉さ、国際的競争力を有している。マレー人は華人と競争できない」

 日本の政治家がこれを言えば、即座に炎上し、謝罪では済まないだろう。しかし氏は言う。祖国を愛しているからこそ、問題点を率直に指摘する。日本からも華人からも「いいとこ取りして学べ」という発想は、徹底した実用主義の純粋形だ。

 アンワル現首相も同じである。訪米の際、「なぜマレーシアは中国に傾倒するのか」と問われ、「中国がより多く投資してくれるからだ」と即答した。イデオロギーではなく、経済。感情ではなく、現実。国家とは本来、こういうものだ。

 私の結論はこうだ。マレーシアは「親日」でも「親中」でもない。「親経済」にすぎない。

● 「親日」という言葉の幼稚性

 日本人はすぐ「親日」「反日」と言いたがる。しかしこの言葉自体が、かなり幼稚な発想の表出だ。国家関係を、小学生の友達関係レベルの「好き嫌い」で理解しようとしている。

 「親日」とされる台湾を見よ。確かに対日好感はある。しかしその背後には、強烈な対中警戒感がある。「日本大好き」というより、「中国に飲み込まれたくない」という安全保障上の感情との連動だ。いわば「同病相憐れむ」に近い。日本と台湾が似た立場に置かれているという、冷徹な地政学的計算が、親日感情の底に流れている。

 ベトナムはさらに露骨だ。歴史的な対中警戒に加え、日本企業の投資、ODA、雇用、日本市場そのものが巨大な利益源になっている。「日本と組むと得だから」――それだけの話だ。これは批判ではない。国家として極めて正常な判断だ。

 問題なのは、日本側である。少し好意的に接されると「親日」と解釈し、少し批判されると「反日」と騒ぐ。世界を「好き」「嫌い」の感情論でしか見ていないから、簡単に騙される。

 現実の国家関係は、幼稚園の友達関係ではない。「誰と組めば利益になるか」「誰と距離を取れば危険か」――国家はその計算で動く。「親日国」という幻想は、日本人側の自己愛と願望の投影にすぎない。

● 二元論という、最古の支配装置

 「嫌韓」「反中」「親米」――この世界は、そんな単純な二極でできてはいない。

 現実の人間感情も、国家関係も、複雑なグラデーションの上に存在する。感情よりも、政治理念よりも、まずは個人、せいぜい特定集団の利益で動く。これはマルクスが言った通りだ。「経済という下部構造が、政治・イデオロギーという上部構造を規定する」。日本人だって、頭が嫌中・反中でも、財布は中国製品と中国市場に依存している。法則は正確に、そして皮肉なほど忠実に機能している。

 そもそも二元論とは、統治者にとって極めて便利な道具だ。「右か左か」「親日か反日か」「我々か彼らか」――この種の単純な分類は、大衆誘導にこれほど都合のよいものはない。大衆が感情的に対立し、消耗し合っている間に、上では静かに利益配分が行われる。昔から変わらない。帝王学の基本構造だ。

 「右」「左」という分類そのものが、最大級の大衆操作装置である。その対立構造を利用して利益を得ているのは、常に統治者階級と特権階級だ。愚民大衆は消耗させられ、分断させられ、搾取される。これが古代から繰り返されてきた、権力の文法である。

● 舌だけが、正直だ

 サテをもう一串、取った。グラスにシラーズの赤ワインを注ぐ。雲の下には、韓国海峡か、もう東シナ海か。どこかに国境線が引かれているはずだ。人間には見えない、国家が決めた線。

 この旅で食ったものを思い返す。注文津や束草の魚貝やカニ、ソウルの彦陽プルコギ、仁川空港の独島焼酎。そして今、雲の上のサテ。どれも「雑草」だ。格式もなく、威厳もなく、ナショナリズムの主張もない。しかし、どれも確かに美味かった。

 政治は感情を動かせる。しかし、味覚までは支配できない。国家は境界を作ろうとする。しかし、人間の舌は案外、その線を越えてしまう。韓国では「独島焼酎」を飲み、複雑な気持ちになりながら「美味い」と感じた。今はマレーシア航空でサテを食いながら、「親日国家」という幻想について考えている。どちらも、頭と舌がバラバラに動いている。

 それで、いいのだと思う。

 人間は「純」だけでは生きられない。しかし「雑」だけでも、どこか空虚になる。国家もまた同じだ。理念だけでは回らない。しかし利益だけでは、人はついてこない。

 雑草の旅とは、結局、その往復運動を愛でる旅だったのかもしれない。雑の中に純を見つけ、純の中に雑を発見する。韓国で、マレーシア航空の機内で、繰り返し繰り返し、それをやっていた。

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