韓国雑草の旅(16)~維持国家の黄昏、雑草の賛歌として日本人へ捧げる

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● アジアにおける日本の位置

 現状認識として、動的競争力という観点では、日本はすでにシンガポールと大韓民国に後れを取り始めている、と見る方が現実に近い。もちろん日本は依然として巨大な資産、高い技術蓄積、部素材産業、治安、インフラ、ブランド力を持っている。だから「弱国」ではない。しかし問題は、日本が「静的に強い」一方で、「動的に強くない」ことである。

 静的な強さとは、蓄積された資産を守る力だ。既存の技術、既存の市場、既存の秩序を維持する能力において、日本はまだ高い水準にある。しかし動的な強さとは別物だ。新しい領域へ踏み込む速度、失敗を前提にした試行錯誤、変化への反射速度。これらにおいて、日本は明らかに劣化している。

 企業で言えば、現預金は大量にあるが新規投資を恐れている会社に近い。資産はある。しかし動かない。動かないから、じわじわと相対的に後退していく。しかもその後退を、多くの日本人はまだ直視できていない。「日本は本当は強い」という1990年代の自己像を、いまだに引きずっている。問題は衰退そのものではない。弱くなっていることより、「まだ自分たちは上位だ」と思い込んでいることの方が、はるかに危険なのである。

● 韓国は犠牲して前進、日本は前進のふりをして滞留

 ここ数ヶ月、アジア主要国・地域を訪問して感じた所感を、荒く言えばこうなる。

 韓国は、犠牲して前進。
 中国は、怪我して前進。
 シンガポールは、賢く前進。
 台湾は、混乱して前進。
 香港は、とりあえず前進。
 日本は、前進のふりをして滞留。

 韓国は国内競争圧力が強い。だから人間が鍛えられ、企業が外へ出る。しかし代償として、社会全体の幸福度が削られる。競争による活力と引き換えに幸福を削る社会だ。日本は逆に、秩序による安定と引き換えに活力を削る社会だ。どちらも代償を払っている。しかし方向が真逆だ。韓国は熱い動的消耗。日本は冷たい静的衰退

 シンガポールはさらに極端だ。国家そのものが「変化しなければ死ぬ」という前提で動いている。小国ゆえに、昨日の成功体験に執着できない。だから合理性で動き、人材も資本も技術も世界から吸い寄せる。一方、日本は過去の成功が巨大すぎた。その結果、社会全体が「壊さない」「失敗しない」「波風を立てない」方向へ最適化されてしまった。つまり今の日本は、「競争国家」というより「維持国家」に近い。

● 「失われた30年」ではない――戦後という長いボーナスタイムの終了

 日本は長く、「失われた30年」と語られてきた。しかし、この表現には一つの前提がある。戦後日本の高度成長と繁栄が、「本来の正常状態」だったという前提である。だが、本当にそうだろうか。むしろ異常だったのは、戦後最初の40年のほうではないか。

 戦後日本は、軍事と政治を大きく制限された一方で、経済だけが突出して肥大化した国家だった。安全保障は米国依存、外交は受動的、軍事は抑制的。その代わりに、輸出主導、高成長、終身雇用、超低金利という、世界的にも極めて特殊な経済モデルが成立した。人口は増え、世界経済は拡大し、日本製造業は世界市場を席巻した。中間層は厚く、社会は安定し、「一億総中流」という幻想まで成立した。こんな条件が同時に揃う国家など、歴史的には極めて稀である。

 つまり日本人は、「普通の先進国」を経験する前に、「戦後ボーナスステージの日本」を先に経験してしまった。だから現在を「衰退」と感じる。しかし実際には、日本経済だけが、ようやく通常国家へ戻り始めているのである。

 インフレ、金利、賃上げ圧力、人口減少、外部ショック、資源価格変動、国際競争――これらは不調の証拠ではない。むしろ、他の先進国では普通に存在している現実である。つまり「失われた30年」とは、崩壊ではない。「得しすぎた40年」が終わり、日本経済が通常状態へ収束していく過程だった、と見るほうが実態に近い。

 問題は、その正常化が「経済だけ」先行している点にある。政治と軍事は、依然として戦後レジームの延長線上にあり、国家としての自己定義が曖昧なままだ。経済は通常国家へ戻りつつあるのに、政治と安全保障の心理だけが、「例外国家」の感覚を引きずっている。この非同期こそが、現在の日本の最大の特徴である。

 日本は転落したのではない。戦後という長いボーナスタイムが終わったのである。問題は、日本が弱くなったことではない。「普通の国」になる(回帰する)痛みに、まだ慣れていないことだ。

● 負けを認めない国民の三分類

 日本人が貧乏になった。貧乏に戻った。それを認めない人間は、三つに分類される。貧乏になっていない人。貧乏になったことを知らない人。貧乏になったことを認めたくない人。

 最も多いのは三番目だ。財布が貧乏になることは怖くない。怖いのは心が貧乏になることだ。しかし現実から目を背け続けることは、心の貧困の始まりでもある。

 韓国で腹を壊した。中国人に騙された。それだけで「No Thank you」。二度と韓国に行かない。二度と中国人と付き合わない。「嫌韓」「反中」で遠吠えの同調をして、些細な心の安寧を得る。あまりにも弱すぎる。だから負け続ける。一度の失敗を撤退理由として固定化し、「酸っぱい葡萄」を並べて自己防衛する。それは敗者の文法だ。

 財力がなくても知力があればいい。知力がなくても胆力があればいい。しかし胆力もなくなったら、もう終わりだ。今の日本に最も欠けているのは、この胆力である。失敗を恐れず動く力。一度やられてもまた向かう力。雑草のように、踏まれても懲りずにまた生えてくる力。

● 同化できない社会の閉鎖性

 日本にやってきた外国人の多くは、日本社会の空気に適応しようとする。声を抑える。自己主張を弱める。衝突を避ける。「すみません」を繰り返す。しかし、どれだけ流暢な日本語を話し、周到な礼儀を身につけ、日本文化を理解し、日本への忠誠を示したとしても、多くの場合、日本社会は彼らを「日本人」とは見ない。せいぜい「日本に慣れた外国人」だ。しかも本国側からは「日本化した人間」として距離を置かれる。二重に外へ押し出されるのである。

 これは移民政策の話だけではない。日本社会が「完全同化」を本気で認める構造を持っていないという、より深い問題だ。日本社会は単なるルール共同体ではない。幼少期から染み込んだ空気、言葉にならない距離感、沈黙の読み合い、共同体特有の感覚によって成立している。だから外から入った人間は、永遠に「外の人」になりやすい。この閉鎖性は、人材という意味での動的競争力をさらに弱める。世界から人材を吸い寄せるシンガポールとの差は、ここにも現れている。

● 雑草の賛歌として、日本人へ捧げる

 このシリーズを「韓国雑草の旅」と題したのは、最初から意図があった。「雑草」とは、踏まれても懲りずに生えてくるものだ。整備された花壇ではなく、踏み固められた路地の隙間に根を張るものだ。韓国という国には、その雑草的な生命力が色濃く残っている。

 しかし同時に、このシリーズは韓国礼賛ではない。韓国は競争圧力で幸福を削っている。若者は疲弊し、老人は孤独だ。弱者への網は粗く、落ちた者の復帰コストは高い。それも現実だ。韓国を「純粋に良い国」とは思っていない。

 私が韓国を何度も訪れ、20回以上通い続けるのは、そこに「生きている社会」を見るからだ。荒く、粗く、雑だ。しかし動いている。止まっていない。日本社会が静かに、しかし確実に重くなっていく中で、韓国の雑さと動的エネルギーは、一種の対照鏡として機能する。

 このシリーズを通じて書いてきたことを、最後に一言で言えばこうなる。「雑」とは未熟ではない。生存戦略だ。「純」とは美徳ではない。コストだ。そして「雑草」とは、管理された環境に馴染めない存在ではなく、どんな環境でも根を張ろうとする意志の形だ。

 日本はそろそろ、「純であること」を誇る時代から抜け出すべきだ。どこを純化し、どこを雑にするか。どこへ胆力を集中し、どこで慎重さを捨てるか。その設計思想を、個人としても、国家としても、真剣に問い直す時期に来ている。

 雑草は、踏まれて終わるのではない。踏まれた場所から、また生えてくる。

<次回>

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