韓国雑草の旅(18)~「韓国に日本人がいない」の正体

<前回>

● 私は本当に、日本人を見なかった

 今回の韓国滞在中、私は何度も同じ感覚を持った。日本語が聞こえない。日本人らしい顔を見ない。東海岸の漁港、地方の市場、ローカル食堂、長距離バスの車内。歩いても歩いても、日本人の気配がない。最初は気のせいかと思った。しかし一日経っても、二日経っても、三日経っても、状況は変わらなかった。

 これは錯覚ではなかった。私が歩いた場所に、実際に日本人はいなかった。その意味では、私の観察は正確だった。現場で感じたことは、現場においては真実だった。しかし私は当初、そこから間違った結論へ向かいかけた。「日本人の韓国離れが、かなり進んでいるのではないか」と。現場感覚というものは、しばしばそういう飛躍を促す。見えないものは、存在しないと思いたくなる。

● しかし統計は、逆を示していた

 帰国後に数字を確認した。2025年の訪韓日本人数は365万人超。過去最多である。2026年の目標は450万人とされている。つまり日本人は韓国から離れていない。むしろ加速している。増えている。私の現場感覚と、統計が示す現実は、完全に逆だった。ではどちらが嘘をついていたのか。

 答えは、どちらでもない。私の観察は正しかった。統計も正しかった。それでも二つは、全く違う現実を指示していた。ここに、この問題の核心がある。数字と感覚が矛盾しているように見える時、たいていの場合、問題は精度ではなく範囲にある。

 ここで面白いことが起きた。この感覚、つまり「韓国に日本人がいない」という現場感覚をそのまま書いたところ、嫌韓読者の多くが即座に飛びついた。「そうだ、日本人は韓国離れしている」「嫌韓が広まった結果だ」「当然だ」。彼らは私の観察を、自分たちの感情的結論の証拠として使った。

 しかし彼らは、統計が真逆を示していることを、見なかった。あるいは見ても、処理しなかった。これは皮肉ではない。観察の罠が、どれほど自動的に作動するかを示す、非常に良い実例だ。人は現実を見るのではなく、見たい現実を確認しに行く。しかもそのことに、気づかない。嫌韓読者が私の文章に釣られた瞬間、彼ら自身が、この回のテーマを身をもって実演していた。

● 観光資源を消費する旅と、社会を観察する旅

 ではなぜ、私の観測地点と、365万人の観測地点は、これほど乖離していたのか。

 現在の訪韓日本人は、行動が極端に集中している。ソウル、明洞、弘大、聖水、美容クリニック、K-POP聖地巡礼、推し活。滞在期間は一泊二日か二泊三日。しかも層が絞られている。20代女性への偏りが著しい。

 訪韓日本人の多くは、韓国を「観光資源」として消費しに来ている。グルメ、美容、K-POP、ショッピング。それ自体を否定する気はない。しかし「観光資源の消費」と「社会の観察」は、根本的に別の行為だ。観光資源を消費する旅は、快適さの中で完結する。見たいものだけを見て、食べたいものだけを食べて、心地よい体験を持ち帰る。韓国の社会構造を理解する必要がない。むしろ理解しなくても、旅は成立する。

 これは若年女性層だけの話ではない。嫌韓派の男性や中高年層からも、同じ文脈のコメントを見かけた。「韓国には観光資源が少ない」という声だ。

 しかしここに、深刻な矛盾がある。「観光資源が少ない」と言う時、その人間もまた、韓国を「観光資源の有無」で測っている。つまり嫌韓派も、K-POP好きの若年女性も、見ている枠組みは同じだ。好きか嫌いかが違うだけで、「韓国=観光資源の集積地」という見方の構造は、完全に一致している。社会を観察する気がない点において、両者は鏡像だ。

 私が歩いていたのは、その導線から完全に外れた場所だった。市場の構造、人の動き、商売の作法、食堂の価格帯、漁港の活気、地方都市の体温。要するに、社会そのものを見ようとしてきた。だから日本人がいなかった。消費導線の外側に、消費目的の観光客は来ない。当たり前のことだが、現場にいる間は、その当たり前がなかなか見えない。

● 敵から学べない者は、敵に負ける

 私はここで、一つの原則を持っている。

 たとえ嫌韓であっても。たとえ政治的に敵対していても。学ぶべきものは、相手を選ばない。歴史を振り返れば、最も多くを学んだのは、敵からだった。明治維新は西洋列強から学んだ。戦後の日本は、占領したアメリカから学んだ。学ぶという行為は、好意とは無関係だ。好きだから学ぶのではない。必要だから学ぶ。あるいは、そこに本物があるから学ぶ。

 韓国の「雑なのに動く」突破力、「始めることへの躊躇のなさ」、「市場への嗅覚」。これらは、好き嫌いとは別の次元で、観察に値する現象だ。嫌韓の人間が韓国から目を背ける時、失っているのは感情的な快適さではなく、現実を読む機会そのものだ。

 敵から学べない者は、敵に負ける。これは感情論ではなく、歴史の基本的な法則だ。

● 現場感覚だけでも危険、統計だけでも危険

 私は今回、自分自身でこの「観察の罠」を体験した。現場を歩いた。肌で感じた。それは確かに本物の感覚だった。しかし観測範囲が偏っていたために、全体推定が簡単にズレた。

 だからといって、統計だけ見ていれば正しいわけでもない。「365万人が訪韓している」という数字は、どこへ行き、何をし、どう動いているかを教えてくれない。数字は現場の肌触りを持たない。365万という塊の中に、どんな層が、どんな目的で、どんな場所へ流れているか。それは統計の外側にある。

 正確な認識には、現場感覚と統計の両方が要る。そしてその二つを重ねた時に初めて、「自分がどこを見ていたか」が見えてくる。

 これは旅行の話ではない。市場分析も、組織分析も、政治分析も、構造は全部同じだ。観測範囲を自覚しないまま全体を語ることの危険は、どの領域でも等しく存在している。そしてネット空間も、この構造から自由ではない。日本のSNSでは「韓国なんか行かない」「もう日本人は韓国へ行かない」という声が目立つ。

 しかし空港の出入国統計は、その逆を示している。同じ感情を持つ者同士が集まり、「みんな韓国を嫌っている」という錯覚が生まれる。自分の観測範囲が世界全体と一致していると信じられる間は、修正の必要が生じない。不快な統計を見なくて済む。反証に触れなくて済む。人は政治感情で語る。しかし身体は、コスパと近距離と娯楽と欲望で動く。感情と行動は、しばしば別の回路で走っている。

<次回>

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