● 「嫌韓批判」を書くと、偽左が寄ってくる
最近、不思議な現象が続いている。
私がSNSで「嫌韓」や「反中」について批判的な文章を書くたび、ある種のアカウントから「いいね」や友人申請が急増するのである。しかも、その相手の投稿履歴を見ると、かなり分かりやすい。「反差別」「反嫌韓」「反右派」系の政治的投稿が並んでいる。要するに、彼らは私を「仲間」だと思って近づいてきている。
しかし私は、一度も「親韓」などと言っていない。むしろ書いているのは、日本人側の情念構造だ。「韓国が悪い」「中国が悪い」と叫びながら、自分たち自身の停滞や劣化には一切触れない。私はその便利な精神構造を批判している。しかし彼らは、そこを読まない。
「嫌韓批判」。はい、親韓認定。「反中批判」。はい、親中認定。内容は読まない。結論だけ先に決める。そして、自分の陣営に都合の良い記号を貼る。パブロフの犬の方が、まだ条件反射の訓練という努力をしている分だけ立派かもしれない。

しかし実際には、彼らが守っているのは国家そのものではない。国家へ投影した「自分自身」である。日本は上であってほしい。韓国は下であってほしい。中国は失敗していてほしい。なぜなら、その序列が崩れると、自分自身の優位感覚まで揺らぎ始めるからだ。
特に、自分自身の生活が不安定な時、人は国家へ自己を投影しやすくなる。個人的な不遇、経済的不安、停滞感、他責感情。そうした不満が蓄積すると、「国家比較」が、自己肯定感を補う代用品として機能し始める。だから「日本はまだ韓国より上だ」「中国なんか崩壊する」という物語は、単なる外交感情ではない。自分自身がまだ敗北していない、と確認するための心理装置でもある。
逆に、中韓ビジネスに深く関わる人間、実際に現地市場で成功している人間、富裕層ほど、「嫌韓」「反中」に極端化しにくい。彼らは現実を知っているからだ。良い部分も悪い部分も、現場で見ている。そして何より、自分自身の価値を、国家順位で補強する必要が薄い。
● 偽右と偽左は、驚くほど似ている
ここで面白いのは、偽右と偽左の構造が、実はほとんど同じだという点である。
偽右は、「韓国中国を叩く」という記号に集まる。偽左は、「嫌韓反中を叩く」という記号に集まる。敵対しているように見える。しかし構造は完全に同じだ。彼らは思想で動いていない。所属で動いている。思想と記号・所属は別物である。
だから彼らは、「何を言っているか」を読まない。「どちら側か」を判定する。この時点で、議論は終わっている。思想とは、本来、現実を観察し、矛盾を引き受け、自分の側にも刃を向ける行為のはずだ。しかしSNS空間で大量生産されているのは、思想ではなく「所属感」である。制服の色が違うだけで、中身は驚くほど似ている。
人は、思想を持っているのではない。思想を持っている気分になれる場所を探している。だから彼らは、「同志ですね!」と言いながら近づいてくる。違う。君たちは、批判されている側だ。
● ついに私は、「半島出身者」になった
そして、ついに来た。ある読者が、私に対してこう書いた。「お前、半島出身者だろ」。ここまで来ると、もはや芸術である。
私は韓国を礼賛していない。むしろ「雑だ」「荒い」「危ない」と繰り返し書いている。それでも、「嫌韓を批判した」というだけで、「半島出身者」に分類された。つまり相手は、内容を読んでいない。読んだ上で反論できなかったので、最後に「属性」へ逃げ込んだのである。
議論とは、本来「コト」を扱うものだ。しかし反論できなくなると、「ヒト」に逃げる。出自、国籍、血筋、属性。つまり「論」で勝てなくなった瞬間、「人種」へ避難したのである。
しかも面白いのは、その論理に従えば、「純粋日本人(彼)が半島出身者(私)に論破された」と自白していることになる点だ。まさか彼は、「半島出身者の方が論理的に優秀である」という一般論を、自ら証明したかったのだろうか。あまりにも滑稽である。それは反撃ではない。敗北宣言だ。しかも非常に幼稚な敗北宣言だ。
● 人は現実ではなく、「安心できる物語」に群れる
魯迅が『阿Q正伝』で描いた「精神的勝利法」を、ご存知だろうか。
現実では負けている。殴られている。侮辱されている。しかし頭の中で勝利の物語を作り、それで自己を保つ。殴られても「息子に殴られた」と解釈して満足する。現実の敗北を、認知の操作で無効化する。魯迅はこれを、百年前の中国農村を舞台に描いた。しかしこれは、百年前の中国農民だけの話ではない。今のSNS空間で、毎日大量生産されている。
「日本はまだ上だ」「韓国は雑だから長期的に負ける」「中国はいずれ崩壊する」。現実の市場データがどれだけ逆を示していても、その物語を手放さない。手放せない。なぜなら、その物語を失った瞬間、自分自身の敗北感と向き合わなければならなくなるからだ。
だから人は、現実を見たいのではない。「自分が安心できる物語」を維持したいだけだ。その願望に合致する情報だけを集める。そして同じ感情を持つ者同士で固まり、「みんなそう思っている」と確認し合う。
だが現実は、感情に従わない。韓国は雑でも動いている。中国企業は嫌われながら市場を取っている。そして日本人自身も、「嫌韓」と言いながら、コスパと娯楽と欲望に従って韓国へ向かっている。365万人という数字が、その現実を静かに示している。
ここに強烈な認知不協和が生まれる。だから人は、ますます記号へ逃げ込む。観察するより、所属した方が楽だからだ。記号の中にいる限り、不快な現実と向き合わなくて済む。統計を見なくて済む。敵から学ばなくて済む。
阿Qは、自分が精神的勝利法を使っていることに、最後まで気づかなかった。だが、もっと興味深いのは、なぜ彼らがそこまで「韓国中国が下であってほしい」と願うのか、である。その答えは、感情の外側にある。




