韓国雑草の旅(20)~市場は「純」を評価しない――品質信仰と日本型コスト構造の限界、Just in Time から Just in Demand へ

<前回>

● 日本は「失敗しない」に強く、韓国は「始める」に強い

 韓国人の「とりあえずやる」を、日本人はよく笑う。「雑だ」「危ない」「品質が低い」。確かに事故も起きる。崩落もある。欠陥もある。しかしそれでも、韓国企業は製品が売れ、案件が取れている。日本企業が会議室で「品質」を語っている間に、市場を押さえていく。これは感情論ではなく、現実だ。

 日本は、「失敗しないこと」に強い。韓国は、「始めること」に強い。日本企業は、「前例は?」「責任は?」「リスクは?」を繰り返しているうちに時間が終わる。韓国企業は、とりあえず現地に入る。問題は後で直す。市場は、道徳の説教では動かない。価格、速度、供給力。まず市場を取った者が勝つ。

 そして、動けない側ほど、「どうせ品質が低い」「長期的には負ける」と語り始める。前回で描いた阿Qの精神的勝利法と、構造は同じだ。現実の敗北を、認知の操作で無効化する。しかし市場は、その操作を知らない。市場は、売れた数字だけを記録する。

● 品質には、三つの層がある

 ここで、製品・サービスの品質について整理する。

 第一、消費者の許容を超えた「雑」は、売れない。これは当然だ。壊れる、使えない、危険。そのレベルの粗悪品は、市場から退場する。
 第二、消費者の予算を超えた「純」も、売れない。どれだけ精緻で美しく、耐久性があっても、価格が許容範囲を超えれば、消費者は買わない。品質の絶対値ではなく、価格との相対関係で判断される。
 第三、「純」を廉売した時、商品は一時的に売れる。しかしそのコストを吸収した業者と従業員が、先に崩れる。

 多くの日本企業が苦しんでいるのは、この第二と第三の罠だ。過剰な品質を正規の価格で売ろうとして買われない。あるいは品質を維持したまま価格を下げ、内側から崩れていく。どちらに転んでも、出口がない。問題は、品質が低いことではない。品質と価格の相対関係が、市場の許容範囲を外れていることだ。

● Just in Time から、Just in Demand へ

 かつて日本企業は、「Just in Time」を武器にした。必要なものを、必要な時に、必要な量だけ供給する。トヨタが世界へ広めたこの概念は、製造業の革命だった。無駄を徹底的に排除し、供給効率を極限まで高める。作る側の最適化として、これは完成の域に達した。しかし現在、中国や韓国企業がやっているのは、別の最適化だ。

 「Just in Demand」である。

 消費者が求めているものを、消費者が払える価格で、消費者が必要な速度で出す。それだけだ。道徳も美学も関係ない。作る側の論理ではなく、売れる側の論理で動いている。

 ここに、決定的な転換がある。

 「Just in Time」は、作ることの最適化だ。「Just in Demand」は、売れることの最適化だ。日本企業は前者を極めた。しかし中韓企業は後者を極めた。そして市場は、後者を選んだ。

 しかも皮肉なのは、「Just in Time」を極限まで追求した結果、日本企業は供給効率には成功したが、需要適応を見失い始めたことだ。完璧に作れるようになった頃には、市場が求めるものが変わっていた。精度を上げれば上げるほど、市場との距離が広がっていった。

 中韓企業は、許容範囲の「雑」を冷静に見極め、その枠の中で最速・最安で市場へ送り出す。過剰品質は作らない。過剰機能は載せない。消費者が「これで十分だ」と思う地点で、迷わず止める。

 これは手抜きではない。需要の読み方が違うのだ。

● 品質信仰は、いつの間にか宗教になった

 ここに、日本固有の問題がある。

 品質信仰は、宗教に似ている。いや、宗教よりも始末が悪い。宗教はお布施で成り立つ。信者が対価を払い、聖職者が維持される。しかし日本の品質信仰は、「高品質・低価格」を同時に正当化する。消費者は高い品質を当然の権利として要求し、しかし高い価格は拒否する。

 この矛盾を、誰が吸収するのか。企業だ。そして従業員だ。結果として何が起きるか。ブラック企業が生まれる。給料が上がらない。給料が上がらないから、消費者はさらに低価格を求める。低価格を求められた企業は、さらにコストを削る。削られた従業員は、さらに給料が上がらない。

 このループから、日本はずっと抜け出せていない。

 しかも恐ろしいのは、誰もこのループを「構造問題」として直視しないことだ。企業は「品質へのこだわり」と言い続ける。消費者は「当然の要求」と思い続ける。そして中韓企業が市場を取っていく現実に対して、「あいつらは雑だから」と言い続ける。分析しない。自己矯正しない。そして批判だけを続ける。

 前回で書いた記号の話と、ここでも構造は重なる。現実を観察するのではなく、自分が安心できる物語を維持する。阿Qは製造業の現場にも、いる。

● 引き算ができない、という本質

 ではなぜ、日本企業は過剰品質を削れないのか。思い切って品質をダウングレードする。過剰な機能を落とす。許容範囲の「雑」に着地させる。これが、中韓企業が当然のようにやっていることだ。しかし日本企業には、これができない。理由は単純だ。日本では、品質が倫理の次元に上がってしまっているからだ。

 品質を下げることは、手を抜くことだ。手を抜くことは、誠実さを欠くことだ。誠実さを欠くことは、道徳的な失敗だ。この等式が、企業文化の深部に埋め込まれている。

 だから「引き算」ができない。削ることが、罪になる。日本人は本来、足し算が得意だ。改善、改良、付加価値。どんどん足していく。しかし引き算は苦手だ。機能を削る、品質を落とす、価格に合わせてスペックを下げる。この判断が、文化的にも心理的にも、非常に重い。

 その結果、市場が求めていない品質を、市場が払えない価格で、提供し続ける。そして売れないことを、消費者の無理解のせいにする。あるいは中韓企業の「雑さ」のせいにする。しかし市場は、そんな説明を聞かない。市場は、売れた数字だけを見ている。

● 「品質」を疑うと、人生を否定されたと感じる国

 「品質」の話題をSNSで書くと、必ずといっていいほど異論が沸き上がる。単なる経済論への反論ではない。どこか、もっと深いところから来ている怒りだ。

 おそらく多くの日本人にとって、「品質」は製品の話ではないのだろう。長年、丁寧に、誠実に、手を抜かずに生きてきた。その自分の人生そのものと、「品質」が重なっている。だから「品質信仰を疑え」という言葉は、製品批評ではなく、自分の生き方への否定として受け取られる。

 品質は、いつの間にか倫理になった。そして倫理への批判は、人格攻撃と区別がつかなくなった。だからこそ、引き算ができない。品質を下げることは、自分の価値観を裏切ることになる。それは経営判断ではなく、人生の敗北として感じられる。

 そしてここに、前回で描いた構造が再び現れる。「品質」という記号に、自分の人生・価値・倫理を投影している。だから、その記号を揺さぶられた瞬間、人は論理ではなく感情で反応する。市場の話をしているはずが、いつの間にか人格の話になっている。

 国家の優位に自己を投影するのが嫌韓・反中の心理構造だとすれば、品質信仰に自己の人生と価値を投影するのも、同じ心理構造の別の発現だ。どちらも、現実を直視することへの防衛反応である。

● 市場に道徳審査員はいない

 市場は、「どちらが正しいか」を裁かない。「どちらが売れたか」だけを裁く。市場に道徳審査員はいない。いるのは、財布を持った消費者だけだ。その消費者は、品質の絶対値ではなく、自分の予算と用途に照らして判断する。「これで十分だ」と思えば買う。「高すぎる」と思えば買わない。それだけだ。

 良い製品が売れるのではない。売れるのが良い製品だ。これが市場経済の基本原則だ。

 日本の品質信仰は、少なくとも無条件の真理ではないことが、世界市場で証明されつつある。正義は当事者によって異なる。市場の正義は、売れることだ。市場の正義とは、生産者が主張する「純」ではなく、消費者が許容する「雑」である。中韓企業は、市場で物理的に勝つ。日本企業は、道徳で精神的に勝つ。

● 「適正雑」という知恵、「過剰純」という呪い

 このシリーズを通じて、私は「雑」という言葉を使い続けてきた。

 韓国は雑だ。荒い。適当だ。危ない。それは本当のことだ。しかし同時に、動いている。突破している。市場を取っている。その現実も、本当のことだ。私が観察してきたのは、「雑」の否定ではない。「雑」の適正化だ。市場には、適正な「雑」度というものがある。消費者が許容できる範囲の雑さ。その枠の中で、最速・最安・最適に届ける。これが「Just in Demand」の本質だ

 問題は、その適正レベルを見極め、そこへ着地させる知恵と勇気を持てるかどうかだ。

 「純」を削ることは、確かに痛い。長年積み上げてきたものを、意図的に落とす。それは技術的な判断である前に、心理的な決断だ。しかし、その決断ができない限り、日本人・日本企業には二重の敵が待っている。

 一つは、外側からくる「適正雑」のライバルだ。中韓企業は、許容範囲の雑さを武器に、価格と速度で市場を押さえていく。もう一つは、内側からくる「過剰純」の自分自身だ。市場が求めていない品質を作り続け、払えない価格で売り続け、そのコストを従業員と業者へ押しつけながら、「品質へのこだわり」と呼ぶ。

 外からやられ、内から崩れる。この二重の消耗から抜け出す方法は、一つしかない。「雑」にすべきものを、正確に「雑」にする。削るべき「純」を、勇気を持って削る。そして、その判断を道徳の失敗ではなく、市場への誠実な応答として捉え直す。

 雑草は、過剰な栄養を蓄えない。必要な分だけ吸収し、必要な速度で伸びる。だから、どこでも生き残る。日本人は、「純」で勝っているつもりだった。しかし市場は、ずっと「雑」を買っていた。

● 終着点ではなく、分岐点

 韓国を歩きながら、私が見ていたのは、韓国だけではなかった。雑草のような生命力、多少の不便や混乱を抱えながらも、とにかく生き残る力。その鏡に映っていたのは、日本社会の変化だった。だから、このシリーズは途中から「韓国論」ではなく、「日本人論」へ変わっていった。

 もっとも、次に向かう先は、いきなり日本ではない。間に、もう一つ重要な比較対象がある。シンガポールである。韓国の「雑草」と、日本の「温室」の間に存在する、極端に人工的で、高度に設計された都市国家。そこには、韓国とは別方向の生存戦略がある――「雑草だが、温室規格」である。

 生存競争は激しい。だが、その競争は制度化され、管理され、効率化されている。剥き出しの雑草ではない。都市国家そのものが、巨大な水耕栽培装置のように設計されている。韓国が「剥き出しの生存力」を見せる国だとすれば、シンガポールは「制度化された生存力」を見せる国である。そして、その両極を見た時、日本の特殊性が、さらに鮮明になる。なぜ日本人は、ここまで快適性へ最適化されたのか。なぜ不便への耐性を失ったのか。なぜ安全・清潔・秩序の代償として、生存力まで外部化してしまったのか。

 私は韓国を礼賛したいわけではない。韓国にも混乱、粗さ、未成熟は大量に存在する。しかし、その「雑草性」は、日本社会が失いつつあるものを、容赦なく照らし出していた。だからこそ、この旅は韓国礼賛でも嫌韓論でも終わらない。比較文明論として、次へ接続していく。

 「韓国雑草の旅」は、ここで一度終わる。だが、旅そのものは終わらない。次は、人工的に設計された都市国家を歩く。次回より、新シリーズ――シンガポール雑草の旅

<次回>

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