韓国雑草の旅、そしてシンガポール雑草の旅を終え、私は再び日本という温室へ戻ってきた。静かで、清潔で、安全で、均質で、よく管理された国。電車は正確に来る。店員は丁寧に頭を下げる。タクシーのドアは自動で開く。世界でも稀なほど快適な社会である。しかし、韓国雑草シリーズを書き続ける中で、私は別のものを観察していた。韓国そのものではない。コメント欄に現れる、日本人の思考構造である。
● 韓国論ではなく、日本人論になっていく
韓国論を書くと、多くの人は韓国を語り始めるのではない。自分自身を語り始める。「韓国人は親切だった」「反日国家には行きたくない」「海外は疲れる」「日本が一番安全」「外国人だらけになる不安」「テレビが洗脳している」などなど。つまり、コメント欄は韓国分析ではなく、日本人の心理断面図になっていく。
面白いのは、議論のレイヤーが噛み合わないことだ。私は「なぜ日本人は外へ出なくなったのか」「なぜ日本は『純』のコストで重くなったのか」「なぜ韓国は雑でも動的活力を維持できるのか」という、国家OS・制度・適応力・コスト構造の話を書いている。だが返ってくるのは「私は韓国で嫌な思いをした」「韓国料理は違和感なかった」「年を取ると海外旅行は面倒」「日本は安全」である。構造論に対して、体験談が返ってくる。
さらに特徴的なのは、「俺は海外を知っている」という武勇伝型コメントだ。実務経験としては重要な話であっても、多くの場合それが抽象化されないまま「俺は苦労した」「俺は知っている」で止まる。本来ならそこから、「信用とは道徳ではなく、検証コスト削減装置である」「日本は信用を内部化しすぎた」「その副作用として癒着構造が生まれた」という構造へ上がらなければならない。しかしそれができない。だから議論が、国家構造論ではなく「俺の海外経験談」へ戻っていく。
● なぜ構造を見ようとしないのか
なぜ、日本人は体験談や感情を語れても、構造を見ようとしないのか。そもそも、純化された無菌状態に近い温室で育てられる草花は、温度も湿度も、雨も風も雪も、害虫すら深く考える必要がない。「安全」「安心」は、最初から外部環境として与えられているからだ。つまり、生き残るために環境を読み、構造を分析し、適応戦略を考える必要が薄い。
雑草は違う。踏まれ、乾き、奪われ、吹き飛ばされる。その中で「なぜここでは生えられるのか」「どこなら生き残れるのか」を身体で学習する。私は韓国雑草の旅を通じて、その差を何度も見た。そして最も鮮明に現れた場所が、実はコメント欄だったのである。
● 人は、自分が理解できるレイヤーでしか読めない
ここで決定的なのは、「韓国好きか嫌いか」で読んでいる人が非常に多いことだ。
しかし私は最初からそんな低いレイヤーで書いていない。韓国は素材である。日本を映す鏡であり、さらに言えば「文明の適応構造」を観察するためのサンプルだ。ところが多くの読者は、国家を「観察対象」ではなく「所属対象」として見る。だから韓国を語ると感情が動く。日本を語ると自己防衛が始まる。その結果、「日本を褒めた」「韓国を貶した」「いや逆だ」という感情ゲームへ落ちていく。
本来の論点はそこではない。
品質は強みだ。しかし品質の過剰化はコストになる。
信用は資産だ。しかし信用依存は癒着を生む。
秩序は文明だ。しかし秩序維持が目的化すると適応力を失う。
そういう話を書いている。すると一部の人は怒る。「日本批判だ」と。しかし違う。構造分析である。もっと言えば、日本人が怒るのは「日本が悪い」と言われたからではない。「日本は永遠に正しいわけではない」と言われたからだ。
だからコメント欄を見ると、よく分かる。人は、自分が理解できるレイヤーでしか反応できない。構造で読む人、感情で読む人、体験で読む人、政治で読む人、陰謀論で読む人。同じ文章を読んでいるのに、見えている世界が違う。結局、韓国雑草シリーズとは、韓国論ではない。コメント欄まで含めた、「日本人観察記録」だったのである。
● 八割と二割――これも構造の問題である
見事に二八法則である。しかもSNSでは、その傾向がさらに極端化する。八割は「自分の感情」「所属意識」「過去体験」「好き嫌い」で読む。だから文章を、「構造物」としてではなく、「自分への態度」として受け取る。私の感覚では、構造として読もうとするのは二割弱。それがSNSに出ると、さらに薄まる。
残酷だが、人間社会は基本的に「抽象化できる少数」と「具体と感情に留まる多数」でできている。これは知能の優劣だけではない。それ自体も構造の問題だ。構造化とは、自分の所属・感情・経験を一度切り離す作業である。多くの人にとって、それは不安定で苦しい。だから人は「分かりやすい敵味方」へ逃げる。そのほうが、精神コストが低いからだ。
コメント欄は、その縮図である。そして日本という温室は、その傾向をさらに加速させる条件を、社会構造として内蔵している。それが、このシリーズで見ていくものだ。
コメント欄は鏡だ。そこに映っているのは、書いた私ではない。読んだあなたである。





