● 自動ドア国家と自己防衛力
海外でタクシーに乗ると、日本人は妙な違和感を覚えることがある。ドアが自動で開かない。運転手も開けてくれない。自分で開け、自分で閉める。日本では当たり前の自動ドアタクシー。しかし、あれは単なる「親切」ではない。乗客から判断と行動の一部を取り上げる仕組みでもある。
海外では、降車時に自分で後方確認をする。バイク、自転車、車の接近を見る。安全を自分で確保する。つまり「降りる」という行為に、主体性が残っている。しかも海外では、単なる自己防衛だけではない。乗客が不用意にドアを開け、後方のバイクや車両と接触事故を起こせば、乗客側に過失責任や賠償責任が発生する可能性がある。
つまり、「自分で開ける」という行為には、「自分で確認する義務」と「事故時の責任」がセットになっている。権限と責任が一体化しているのである。一方、日本では、自動ドアと過剰サービス化によって、乗客は「保護される側」へ寄っていく。安全確認も責任感覚も、徐々に外部化される。
もちろん、日本の仕組み自体は優秀である。安全性、サービス品質、事故防止の観点では合理性がある。しかし、便利さには必ず副作用がある。負荷を減らし続ける社会では、人間側の負荷耐性も落ちる。だから一部の日本人は、海外で「自動で開かない」という程度のことで疲れる。外国を「不便」「遅れている」と見る。しかし逆方向から見れば、それは「自分で確認し、自分で動く能力」を外部化し過ぎた結果でもある。
そもそも、自動ドアにはコストがかかる。設備費、メンテナンス費、それは運賃に転嫁される。手動ドアを選べる市場があれば、安く乗りたい客と快適さに金を払う客が共存できた。しかし日本は、品質基準は「先端」に合わせ、選択肢の多様性は切り捨て、一律自動ドアを事実上の国家仕様とした。消費者に選ばせるより、一つの正解を与えるほうが管理しやすいからだ。
そして日本人は「我が国のタクシーは世界一」と胸を張る。だが自動ドア程度の技術は、やろうと思えばどの国でも実装できる。なぜ多くの国が手動のままにしているのか。コストと便益を計算し、合理的に選択しているからだ。日本人はその問いを立てない。「あの国は遅れている」で思考を止め、自国の選択を疑わない。現象を「便利」と読む段階にとどまり、「便利の裏にあるコストと副作用」へ降りていかない。日本礼賛は、構造を見ない者の自己慰撫である。
文明は人間を楽にする。しかし、楽にし過ぎた文明は、人間の感覚器官そのものを弱らせる。温室は快適だ。だが、風の中で立てるとは限らない。
● 「根性論」の裏にある構造
こんな書き込みがあった。「日本は過去の栄光にすがっている。その間にアジア諸国が追い越していく。悔しいがこれが現実だ」。ここまでは非常に重要な現実認識だと思う。少なくとも、「日本は永遠にアジア最強」という幻想からは降りている。だが最後に、「これくらいの根性が欲しい」と締められていた。そこが惜しい。なぜなら、それは再び「精神論」へ戻ってしまうからだ。
韓国や中国の競争力の一部は、民族根性論ではない。逃げ場の少なさ、競争圧力、失敗コスト、国家構造、教育競争、市場圧縮。そうした構造が、人間をそう動かしている。つまり「韓国人が強い」のではない。「強くならざるを得ない環境」が存在する。
一方、日本は違った。根性がなくても、そこそこ生きられる。失敗しても、ある程度戻れる。空気に従えば、大きく外れない。自己責任を極端には問われない。逆に、空気に抵抗するコストが大きく、インセンティブが薄い。これは弱点だけではない。高度成長期にはむしろ強みだった。安定、秩序、治安、信用。その恩恵を日本人は確かに受けてきた。
だが、副作用も生まれた。考えなくても生きられる。挑戦しなくても生きられる。外へ出なくても生きられる。すると人間は徐々に、精神コストと自己責任を嫌がるようになる。そして気づけば、「安全」「安心」が逆に人間の生存力を弱め始める。日本人に根性がないのではない。日本人の根性は、「安全」「安心」に去勢されたのである。
はっきり言おう。日本人は、思考の自由を差し出し、引き換えに生存の保証を求めた。一度成立したそのトレードオフは、今、後者が一方的に崩れ始めた。すると、思考力を失った者の、生存力の脆弱性が露呈する。根性論に戻ることは、その構造を直視しないための、もう一つの逃避である。
精神論は、構造論の敗北宣言である。





