日本温室の旅(5)~「かわいい子には旅をさせよ」、生存訓練を失った国

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● 「旅」とは観光ではない

 「かわいい子には旅をさせよ」とは、本来、「世界を見てこい」という意味ではない。もっと冷酷で、もっと現実的な意味だった。「苦労を経験させよ」である。

 つまり、親の管理外へ放り出し、不便、不安、失敗、人間の悪意、理不尽、孤独、交渉を経験させる。そこではじめて、人間は「自分で考え、自分で生きる力」を持つ。だから昔の日本人は、丁稚奉公へ出し、地方へ修行へ出し、海外へ送り出した。かわいいから守るのではない。かわいいから、あえて外へ出した。

 私はときどき、キタキツネ物語を思い出す。親ギツネは、ある時期になると子ギツネを容赦なく縄張りから追い出す。人間の感覚で見れば冷酷だ。しかし野生では、それが生存教育だからだ。いつまでも親の縄張りに置けば、餌不足や外敵リスクで共倒れになる。だから、自分で獲物を探し、自分で危険を察知し、自分で冬を越えろ、と突き放す。あれを「かわいそう」とだけ見るか、「生存戦略」と見るかで、社会観はかなり変わる。

● 「楽」を大量供給する社会になった

 現在の日本は、完全に逆方向へ進んでいる。転ばないよう床を柔らかくし、クレームを避け、危険を除去し、不快を除去し、失敗を防止する。学校でも会社でも家庭でも、「傷つけないこと」が最優先になった。その結果、何が起きたか。不便耐性が落ちた。交渉力が落ちた。警戒心が落ちた。環境適応力が落ちた。つまり、「生存力」が落ちた

 バンコクの市場で、日本人旅行者が値段交渉を求められ、固まっていた。周囲の欧米人やアジア人は当然のように値を告げ、笑いながら折り合いをつけていく。日本人だけが、正札のない場所で立ちすくんでいた。「いくらですか」と聞くことすら、怖いようだった。それは観光の失敗談ではない。「正解が用意されていない空間」に耐えられなくなった人間の、生存反応の話だった。

 海外へ出ると、日本人の一部は驚くほど脆い。説明されることを前提にし、守られることを前提にし、ルールが機能することを前提にしている。しかし世界の多数派は違う。「まず自分で守れ」が基本だ。

 私は、徴兵制そのものを単純に「軍事制度」とだけ見ているわけではない。むしろ、一種の「強制的外気曝露装置」として見ている部分がある。もちろん、戦争を歓迎しているわけではない。問題はむしろ逆だ。高度安全社会が長く続いたとき、人間の危機耐性や環境適応力を、社会はどう維持するのか、という問題である。

 韓国や台湾では、多くの若者が一定期間、共同生活、不自由、上下関係、肉体負荷、理不尽、環境変化へ強制的に晒される。そこでは、「自分の快適空間」だけでは生きられない。もちろん弊害もある。服従訓練や同調圧力、精神的疲弊の問題も小さくない。しかし少なくとも、「世界は自分に合わせてくれない」という感覚だけは残る。

 一方、日本社会は逆方向へ進んだ。不快を除去し、危険を除去し、摩擦を除去し、「説明書付きの人生」を大量供給する方向へ最適化された。結果として、「正解が用意されていない環境」に耐えられない人間が増えている。私は、この差を単なる軍事論ではなく、「管理外環境への耐性」の差として見ている。

 しかも厄介なのは、人間は本能的に「楽」を善とする点だ。不便より便利、危険より安全、緊張より安定。これは自然な本能である。だから社会は成功した。それ自体は文明の成果だ。問題は、人間が環境に適応することだ。本来は特殊な安全環境が「当たり前の自然環境」に見え始める。

 さらに「楽」が道徳化し始める。過保護は「優しさ」へ、過剰安全は「人権」へ、競争回避は「平等」へ。それが無制限化すると、人間の耐性そのものを削る。

● 日本人DNAの問題ではない

 ここで必ず出てくるのが、「農耕民族論」「島国根性論」「日本人は昔からこういう民族だ」という説明だ。しかし、それは半分しか見ていない。

 ブラジル移民を見ればわかる。かつての日本人は、ほぼ命懸けで南米へ渡った。言葉も通じず、差別もあり、治安も厳しい中で土地を開墾し、生き残った。戦後の商社マンも、移民も、外航船員も、今の温室的日本人像とはかなり違う。

 つまり、日本人のDNAが弱いのではない。問題は、日本社会そのものが「人間を弱くする方向」へ最適化されすぎたことだ。弱いのは民族ではない。弱くなるように設計された環境である。

● 「異端的ファミリー」が消えた

 先日の投稿に、非常に興味深いコメントをもらった。「11歳の子供に、シンガポールとジョホールバルで現金を持たせ、一人で買い物へ行かせた」という話だ。日本では、かなり驚かれる話かもしれない。

 しかし私は、この家庭をむしろ非常に健全だと思った。なぜなら、そこには明確な思想があるからだ。「子供を守る」ではなく、「子供を外で機能する個体へ育てる」という思想である。

 しかも興味深いのは、この方が「親しき仲でも主張は明確に言え」「察する文化は家庭内で通じない」「まず相手に自分の要望を理解してもらえ」と書いている点だ。つまり、「空気を読む能力」より、「異なる環境で通用する能力」を優先している。これは実は、かなり「外気型」の教育である。

 ここで重要なのは、この家庭が「放置」しているのではないことだ。意図的に、設計して、子供を管理外環境へ放り込んでいる。「管理」ではなく「訓練」。その差は大きい。訓練とは、制御された負荷を与えることだ。無計画な危険とは違う。

 一方、日本社会は逆方向へ進んでいる。危険回避、失敗回避、感情保護、先回り、代行。近年では「退職代行」なるサービスまで登場した。自分の口で「辞めます」と言えない。それを業者に代行させる。退職という、人生における最終交渉すら外注化する社会。日本人の軟弱化を、これほど痛々しく示す現象も珍しい。

 かつては、こうした「異端的ファミリー」が社会のあちこちにいた。子供を丁稚へ出す親、地方へ修行へ送り出す親、海外へ旅立たせる親。しかし今、「かわいいから温室へ閉じ込める」が、半ば美徳として定着した。

● 温室の花は、美しい。しかし、野火には弱い。

 キタキツネの親は、子を嫌って追い出すのではない。生き残らせるために追い出す。「かわいい子には旅をさせよ」とは、単なる精神論ではない。人間は放っておけば、必ず楽へ流れる。その惰性に抗い、意図的に負荷を与えなければ生存力は失われる、という極めて現実的な知恵だったのである。

 私は、あの「異端的ファミリー」に、むしろ未来適応の匂いを感じた。11歳でシンガポールとジョホールバルの街へ一人で放り出された子供は、そこで何かを学ぶ。説明書のない場所で、自分で考え、自分で動く経験を積む。それは教室では手に入らない。温室の中では絶対に育たないものだ。

 温室は悪ではない。問題は、温室しか知らないことだ。

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