● イスタンブールの記憶
2014年9月、イスタンブールを訪れたことがある。スルタンアフメット広場に立ち、ブルーモスクを背に写真を撮った。あのとき感じたのは、「ここは東でも西でもない」という感覚だった。

イスラム国なのに酒を飲む。EUにも入れない。アラブにもなりきれない。トルコとは、巨大な「接続不全」国家である。しかしその「半端さ」こそが、トルコの強さだった。オスマン帝国の時代、三大陸にまたがる多民族・多宗教の帝国を維持できたのは、「純化」を拒んだからだ。トルコは、本質的に「純」にはなれない国だ。そのトルコの蒸留酒が、Rakiである。
● 出張最終日、Alaturkaへ

出張5日目、最終日の昼食。アラブストリートのBussorah Streetに面した「Alaturka」というトルコ・地中海料理店へ入った。
外観の看板が面白い。英語に並んで、日本語、中国語、韓国語と四言語が横に並んでいる。これは本シリーズ(2)で書いた「棲み分け」とは少し違う。棲み分けではなく、「全方位接続」の設計だ。シンガポールという都市が「接続効率」を極限まで高めた国家であることが、一枚の看板に出ている。
● 今度こそ、Raki
今日は最終日。午後の仕事はない。飛行機に乗ってクアラルンプールに戻るだけ。迷わずRakiを頼んだ。Cappadociaでは「さすがに午後に仕事があるから」と断念した、あの45度の蒸留酒だ。水を注ぐと白濁する。トルコではこれを「ライオンのミルク」と呼ぶ。
イスラム圏の蒸留酒というのは、それ自体がトルコという国の矛盾を象徴している。コーランは酒を禁じている。しかし飲む。「純」の国家なら、ここで割り切る。トルコは割り切らない。その割り切れなさが、Rakiという酒を生んだ。

では、なぜイスラム圏で酒が存在するのか。これは単なる「禁を破る」話ではない。教義の解釈の問題だ。コーランは酒を禁じる。しかし現実のイスラム社会は、一枚岩ではない。「発酵酒は禁止だが蒸留酒は別」「酩酊しなければよい」「最終的には個人の良心の問題」――解釈はいくらでも分岐する。
つまり、「飲酒禁止」という教義は、解釈次第でいくらでも「雑」になれる。厳格に守る人は守る。緩やかに解釈する人は飲む。それが現実のイスラム社会だ。サウジアラビアのように国家が厳格に執行する社会もある。トルコやレバノンのように、建前は禁止でも実態は「個人の判断」に委ねる社会もある。そしてシンガポールのように、ハラール店とアルコール提供店が同じ通りで「棲み分け」ている社会もある。

本シリーズ(2)で書いたCappadociaの「メニューに載っていないが、言えば出す」という運用は、この構造の縮図だ。建前として教義を立てる。しかし運用は現実に合わせる。「原則は守る。しかし解釈は手元に置く」。これは法律実務にも通じる。法律の最も重要なのは条文ではなく、解釈だ。これがイスラム世界の「雑」の本質であり、同時に1400年間この宗教が多様な文化圏で生き残ってきた理由でもある。教義が「純」であっても、解釈が「雑」であれば、社会は動く。むしろ解釈の多義性こそが、宗教の生命維持装置なのかもしれない。
● キョフテとラムチョップ
料理はキョフテとラムチョップを頼んだ。キョフテは挽き肉にスパイスを混ぜて炭火で焼く、トルコの定番だ。精密な料理ではない。スパイスの配合と火加減だけで食わせる。「雑草の料理」がまた一品、テーブルに乗った。

ラムチョップは骨付きのまま皿に乗ってくる。スパイスでマリネして炭火で焼く。Rakiのアニスの香りが、ラムの脂をきれいに流す。この組み合わせは、地中海・中東圏でほぼ鉄板だ。そもそもラムとRakiは、同じ文化圏の産物だ。禁じられた酒と、許された肉。その組み合わせが成立するのも、「解釈の雑さ」があってこそだ。

● 「純化」した文明は、案外もろい
この旅でトルコ料理を3回食べた。Cappadocia、Tarboush、そしてAlaturka。「雑」と「純」と「全方位」、三店三様だった。しかし料理の根っこは同じだ。炭火、スパイス、ラム。素材と火の料理。
考えてみると、この旅で食べた店はすべて、「純」と「雑」の間のどこかに位置していた。ギリシャ料理のBlu Kouzinaは「西洋の雑」。Cappadociaは「建前ハラール・本音酒あり」の雑。Tarboushは「純ハラール」の純。Byblosは「堂々と酒を出す」反対純。そしてAlaturkaは「全方位接続」。五店が五様の運用をしている。それが同じ界隈に並立している。これがシンガポールだ。
レバノンは「自然発生的な雑」で割れた。シンガポールは「管理された雑」で成功した。ではトルコは何か。EUにもなれない。アラブ連盟にも入らない。NATOの中では異端で、国内では世俗主義とイスラム主義が今も綱引きを続ける。「管理しきれない接続」だ。それでも地政学的な「接続点」であることは変わらない。料理と酒だけは、世界中に広がった。
シンガポールは、雑を管理する国家だった。トルコは、管理しきれない雑そのものだった。「純化」した文明は、案外もろい。だからRakiは、妙にうまかった。




