シンガポール雑草の旅(5)~雑なパーティー、合理国家の正体

<前回>

● 「VIPパーティー」のはずだった

 今回のシンガポール出張の主目的は、シンガポール最大級のテクノロジーイベント「Asia Tech x Singapore 2026」において、講演登壇することだ。博覧会の視察も並行実施する。

ATxEnterprise 講師バッジ

 2026年5月20日、博覧会・サミット初日の夜、VIP・講師・出展者向けのパーティーが催された。数百人規模と聞けば、日本人は普通こう想像するだろう。ホテル宴会場、立食ブッフェ、大量の料理、乾杯、司会進行、VIP紹介、延々続くスピーチ。そして最後には、誰も食べなかった料理が山のように廃棄される。

 しかし、会場へ行って驚いた。場所は、Singapore EXPO併設の「Market Place」というホーカーセンター風フードコートだったのである。

 入口で、スタッフのおばさんが私の首から下がるバッジを見た。「あっ、講師の先生ですね」。そう言うと、最初から配られていた現金券に加え、追加20シンガポールドル分の券を手渡してきた。どうやら講師向けの謝礼代わりらしい。VIP専用個室もない。高級ホテルもない。代わりに、現金券が配られる。

配布された現金券、講師には追加20ドル分が手渡された

● 「プログラムなし、段取りなし」

 しかも、事前通知にはこう書かれていた。「プログラムなし、段取りなし、スピーチなし、自由飲食、自由交流、自由入退場」。

 私は思わず笑ってしまった。日本なら、まず成立しない。必ず誰かが、「開会挨拶は?」「乾杯は?」「VIP紹介は?」「司会は?」「タイムテーブルは?」と言い始める。そして気づけば全員が、興味もない話を立ったまま聞かされる。

 しかしシンガポールは違う。「交流したい人は交流する。帰りたい人は帰る。飲みたい人は飲む。それでいい」。極めて雑である。だが、この雑さが、実は高度に合理的なのだ。

● ホーカー方式の合理性

ホーカーセンターのステージでバンド演奏、VIPパーティーの会場とは思えない光景だ

 場内には海南チキンライス、フィッシュヘッドカレー、炒め物、インド料理、麺類、ビール、ワイン、ウィスキーまで全部揃っている。参加者は好きな店へ行き、好きな物を食べ、好きな酒を飲む。足りなければ自腹で追加するだけだ。しかもバンド演奏付き。

 日本的感覚なら、「VIPなのにホーカー?」となる。しかしシンガポールは違う。「合理的で、参加者満足度が高いなら、それでいい」で終わる。

 実際、この方式、驚くほど無駄がない。ブッフェ形式なら、必ず大量廃棄が出る。見栄のために過剰供給するからだ。しかし現金券方式では、人間が自分の好きな物しか取らない。店側も通常営業に近い形で回せる。在庫回転も読める。撤収も楽。既存インフラ活用だから追加設営費も少ない。つまり、参加者も満足し、運営も合理的で、ホーカー側にも金が落ちる。全員が得をする。

会場全景、参加者は好きな店へ行き、好きな物を食べ、好きな酒を飲む

 しかも、この方式、単なる「ケチ」ではない。むしろ人間心理をよく理解している。人間は「豪華ブッフェ」より「自分で選べる」ほうが満足度が高い。シンガポールはそこを最初から前提にしている。「人間は好みが違う」「無駄はコスト」「自由選択のほうが満足度が高い」。

● 「完全平等」ではない

 さらに面白いのは、「完全平等」でもないことだ。講師には追加20ドル。しかし、露骨な階級演出はしない。「役割差には少し報いるが、過剰特権化はしない」。非常に実務国家的である。

 会場を見渡すと、スーツ姿の出展者もいれば、Tシャツ姿のエンジニアもいる。インド系、華人系、欧米系、中東系、全部混ざっている。AIの展示会なのに、ホーカーでビール片手に雑談している。妙に雑である。しかし、この「雑さ」がシンガポールの強さなのだと思う。

● 「制度で行動を変える」国家

 日本は、整いすぎている。形式が多い。気遣いが多い。配慮が多い。だが、その結果、運営コストも上がる。一方シンガポールは、「動けばいい」が強い。だから、交流そのものを管理しようとしない。最低限の場だけ用意し、あとは人間同士に任せる。

 これは国家運営にも似ている。日本は「良かれと思って」細かく管理する。しかし、その結果、全体が重くなる。一方シンガポールは、「制度で行動を誘導する」。ブッフェ文化は「余る前提」。この現金券方式は、「必要な分だけ取る行動」を自然に誘導している。誰も説教しない。SDGsも叫ばない。食品ロス削減ポスターもない。しかし、結果として無駄は減る。人間を道徳で変えようとしていない。行動設計で動かしている。「制度は人間を変えるのではなく、行動を変える」。まさに、その世界だ。雑である。しかし、強い。

● 「全員ウィン・ウィン」の二類型

 「全員が得をする」。今夜のホーカーパーティーを見ていると、確かにそう見えた。参加者は好きな物を食べ、運営は無駄を出さず、ホーカー側にも金が落ちる。これは「純粋全員ウィン」だ。誰かのロスの上に成立しているわけではない。既存インフラを活用し、自由選択に任せることで、資源の総量を増やさずに満足度を上げた。パイを奪い合うのではなく、パイの切り方を変えた結果である。

 しかし「全員ウィン・ウィン」にはもう一類型ある。「可視的な全員ウィン・非可視的ロスあり」だ。日本社会でよく起きる現象がこれにあたる。組織の中で、後進や低パフォーマーに基準を合わせる。「誰も傷つかない」ように調整し、「温情」「優しさ」をアピールする。表面上は全員が納得している。しかし限られた資源の配分において、先進・高パフォーマーが本来得るべきリターンを削られている。そのロスは可視化されない。不満として表面に出ないからだ。しかし確実に、優秀な人間のモチベーション低下と離脱リスクとして蓄積されていく

 つまり日本型の「全員ウィン」は、先進が負担するコストを非可視化することで成立している。大義名分や美辞麗句の下で、誰も傷ついていないように見えるが、実際には静かに先進が削られている。「丸く収める」文化の代償は、見えにくいところで払われている。

 今夜の現金券方式が「純粋全員ウィン」であったのは、自由選択という設計によって、誰かに基準を合わせるコストそのものを消去したからだ。合わせない。それぞれが好きな物を取る。それだけで、非可視的ロスは発生しない。シンガポールの合理性は、「調整コストを下げる」ではなく、「調整そのものを設計で不要にする」ところにある。合理国家の正体は、そこにある。

● シンガポール人は何を見ているのか

 読者から興味深いコメントをいただいた。「理屈と対価が法律に違反しないで見合うなら、個人の裁量でどんどんやっちゃえ、というコンセンサスがある」。私はこの表現を読んで、「なるほど」と思った。シンガポールを見ていると、確かにそういう空気を感じることがある。

 日本ではまず「前例があるか」が問われる。誰が承認するのか。慣例に合うのか。組織内で問題にならないか。判断の出発点が組織との整合性に置かれやすい。一方でシンガポールでは、「利益が出るのか」「顧客は喜ぶのか」「法律上問題ないのか」という順番で考える人が多いように見える。もちろん現実はもっと複雑だが、判断の重心が違う。

 私は両国を見ながら、こんな整理ができるのではないかと思う。

 日本は「情→法→理」で動く。まず人間関係がある。次にルールがある。最後に理屈が来る。だから、「長年のお付き合いだから」「みんな頑張っているから」「空気を読んで」が先に出てくる。理屈で正しくても、人間関係を壊すと受け入れられにくい。

 これに対してシンガポールは「理→法→情」で動く。まず合理性がある。次に法的整合性がある。最後に人情を考える。「利益になるのか」「法律上問題ないのか」「ならやろう」という発想である。人情は存在するが、最初の判断基準ではない。

 今回博覧会・サミットでも、その雰囲気を感じた。展示会場では10シンガポールドルのクーポンが大量に配られ、来場者は自由に飲食や買い物に使える。主催者は来場者を集め、出展者は商機を作り、飲食店は売上を得る。まず市場を回すことを考えている。

 この考え方は国家運営にも通じているように思う。シンガポールには大きな国内市場もない。天然資源もない。人口も限られている。だから理念だけでは生き残れない。港湾を作り、金融を育て、観光客を呼び込み、外国企業を誘致し、必要なら外国人材も受け入れる。すべてが「どう生き残るか」「どう稼ぐか」という問いから逆算されている。

 私は中国を歩くと生命力を感じる。韓国を歩くと競争力を感じる。しかしシンガポールを歩くと経営感覚を感じる。国家全体が一つの巨大企業のように動いているのである。だからシンガポールは中国ほど雑ではない。日本ほど管理的でもない。雑草の生命力を残しながら、温室の管理技術も持っている。つまり、シンガポールは、雑草だが温室規格

 日本は安心を最大化した。中国は適応力を最大化した。シンガポールは収益性を最大化した。もちろん現実はもっと複雑である。しかし街を歩いていると、それぞれの社会が何を最優先に設計しているのかが、少しずつ見えてくるのである。そして、日本人とシンガポール人が同じ英語で会話していても、ときどき話が噛み合わない理由も、案外ここにあるのかもしれない。

 日本人は「この人は信頼できるか」を先に見る。シンガポール人は「この話は成立するか」を先に見る。見ている順番そのものが違うのである。

<次回>

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