シンガポール雑草の旅(8)~見える統制、見えない統制、「空気支配国家」日本との違い

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● 読者コメントが来た

 このシリーズを書いていると、さまざまな反応が届く。その中に、こんなコメントがあった。「シンガポールは気持ち悪いし、ダメな国だと思う」

 理由は二つ。一つ目、全員の髪型が同じで、茶髪や男の長髪を見かけない。そこまで統制する意味があるのか。二つ目、空港へのMRTの中で、隣にいた男の子が突然奇声を発した。老夫婦が付き添っていた。自閉症だろうと思い、そのまま隣にいたが、周囲のシンガポール人は一斉に離れていった。空港に着くと、脱兎のごとく車両から降りていった。老夫婦が縮こまっていてかわいそうだった。「そうした障害者をまるで異物や不要物のように扱うような教育をしているシンガポールは異常だ。ナチスと同じだ」というのが、その読者の結論だった。

 私はこう返した。「統制もしないのに皆が茶髪になっている国がもっと気持ち悪い。異様な状況を避けるのはリスク管理の基本だ。人間の自然な危機回避行動は非難されるべきではない。ナチスと同じだというコメントは論理の飛躍だ」と。

シンガポール・アラブストリート

● 「距離を取る」ことはナチズムか

 ナチスとは、国家権力による体系的迫害だ。法律、暴力、隔離、強制収容、抹消政策。国家機構を用いて特定属性を排除する統治システムである。一方、MRTの乗客が取った行動は、「予測不能な状況への距離確保」にすぎない。これは本能的反応であり、人間社会では極めて普遍的な行動だ。深夜に怒鳴る酔っ払い。突然大声を出す人。意味不明な行動をする人物。人はまず距離を取る。これは差別以前に、安全確認である。

 もちろん、冷淡さや過剰反応はあるだろう。しかし、「距離を取った」→「ナチス」と直結させると、人間の自然な危機回避行動そのものを否定し始める。そこまで行くと、現実社会と乖離する。問題は「どう共存設計するか」であって、「人間は驚いてはいけない」という道徳強制ではない。「ナチスと同じだ」は思考の飛躍だ。

● シンガポールは「明示統制国家」である

 私はむしろ別の部分に注目している。シンガポールは、統制を隠さない国家だ。髪型、学校規律、公共空間、罰則、行動規範。国家が前面に出て、「ここまではダメ」と比較的明示する。だから、見える。

 一方、日本は違う。禁止されていない。しかし全員同じになる。誰も命令していない。しかし空気で従わせる。茶髪禁止ではない。だが皆が同調する。私はむしろ、こちらのほうに強い不気味さを感じる。統制そのものへの批判ではない。「責任主体が見えない統制」への違和感だ。

 シンガポール批判をする読者は、「国家が統制している」ことを問題にした。しかし日本では、国家ではなく空気が統制している。誰も命令していないが、全員が同じ方向を向く。これを「自由」と呼ぶのか。私にはそう思えない。見えない権力は、見える権力より手強い。抵抗する相手がいないからだ。

シンガポール・アラブストリート

● 日本は「空気統制国家」である

 日本社会の特徴は、「責任主体が見えない統制」だ。会社でも同じである。成果主義と言いながら年功序列自由と言いながら同調圧力自己責任と言いながら村社会。規則に書いていない。だが逆らえない。これが日本型統治の本質だ。

 だから私は、「統制そのもの」を単純否定しているのではない。曖昧な空気支配を嫌っているのだ。これは私が提唱する3階建®/Three-Tier™制度の発想にも通じる。従来の日本企業は、時間・役割・成果・忠誠・同調を全部混ぜて運用してきた。だから評価基準が見えない。何を頑張ればいいのかが曖昧になる。そして最後は「空気を読め」に回収される。

 私は、それを分離し、見える化したい。成果なら成果、役割なら役割、保障なら保障。空気で支配するのではなく、構造で明示する。「見える統制」「見えない統制」を比較した時、私は後者のほうにむしろ強い恐怖を感じる。

● クルド人問題とシンガポール――「自由」と「秩序」の制度設計

 読者コメントの中に、もう一つ興味深いものがあった。「悪をしなければ自由。シンガポールは日本より悪に厳しいのではないか」。これは単なる外国人問題ではない。制度論の話だ。

 近年、日本ではクルド人問題をめぐり、「多文化共生」と「地域秩序維持」の衝突が表面化している。もちろん大半の外国人は普通に生活している。しかし一部地域では、騒音、交通、解体業、治安、不法滞在、コミュニティ摩擦などをめぐり、住民不安が現実化している。

 ここで日本社会は、かなり独特だ。日本は長く、「空気」と共同体圧力で秩序を維持してきた。「迷惑をかけない」「周囲に合わせる」「察する」という暗黙ルールで社会が回っていた。だから日本の制度は、実は「性善説依存」が強い。ところが、多民族化・価値観多様化・共同体希薄化が進むと、「空気」だけでは統治できなくなる。しかし日本は、強制力を露骨に行使することを嫌う。結果、「ルールを守る側だけが我慢する」という奇妙な状態が起きやすい。

 一方、シンガポールは違う。シンガポールは、「自由」より先に「社会機能維持」を置く国家だ。だから法執行が速い。罰則が重い。監視も強い。しかしその代わり、街が安全で、公共空間が壊れにくく、低犯罪率と高い社会効率を実現している。つまりシンガポールは、「理想的人間」を期待していない。むしろ、「人間は一定確率で問題を起こす」を前提に制度設計している。ここが日本との決定的な違いだ。

 日本は、「皆が空気を読む」を前提に社会を作った。シンガポールは、「読まない人間もいる」を前提に制度を作った。どちらが道徳的か、という話ではない。どちらが、現代の多民族・高流動社会に適応しやすいか、という制度問題だ。

● 国家は何を守る装置なのか

 今、日本でも徐々に問われ始めている。「自由」とは何か。「寛容」とは何か。「国家は、何を守る装置なのか」。クルド人問題は、その問いを日本社会へ突きつけている。

 シンガポール雑草の旅を通じて、私が繰り返し感じてきたのは、この国が「設計」を隠さないということだ。純と雑の棲み分け、ホーカーパーティーの行動設計、移民政策の選別基準、法執行の速さ。全部、設計が見える。好き嫌いは別にして、「何のためにこうなっているか」が分かる。

 日本は逆だ。設計が見えない。空気が動かす。だから批判する相手もいなければ、変える起点も見つからない。シンガポールを「気持ち悪い」と感じる日本人の感覚は、分からなくもない。しかし私は思う。設計が見える社会と、空気が支配する社会。どちらがより「気持ち悪い」のか、と。

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