日本温室の旅(15)~「コマ」は誰が作ったのか、近代文明と交換可能人間の誕生

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● 近代が必要とした人間

 韓国、シンガポール、中国、中東を歩きながら、私はある問いを持ち続けていた。なぜ日本人だけが、説明書のない場所で止まり、正解のない状況で黙り、交渉の必要な場面で固まるのか。違和感の正体を探るうちに、私は近代そのものへ辿り着いた。

 工業化、大量生産、官僚制、全国均一サービス。これらを成立させるためには、一つの条件が必要だった。「個体差を減らし、一定品質で安定稼働する人間」だ。言い換えれば、「人間の規格化・標準化」である。

 創作系の芸術家や職人の気まぐれな個性は、大量生産には向かない。地域によって異なる判断基準は、官僚制には向かない。人によって変わるサービス品質は、チェーン展開には向かない。近代とは、人間をカセット式の「交換可能なコマ」として標準化することで成立したシステムだった。

 これは日本に限らない。近代文明の普遍的要求だった。そしてこのコマ化には、正当な成果があった。大量生産、低価格、高品質、安定供給、低犯罪、高生活水準。コマ化は近代文明の成功条件でもあった。問題は「コマになったこと」ではない。「どのコマになったか」だ。

● コマには二種類ある

 私は各国を観察する中で、「コマ」には根本的に異なる二種類があることに気づいた。

 一つは「温室コマ」だ。低流動性環境への最適化。企業内部、組織内部、特定の共同体の中でのみ高性能を発揮する。守られた環境、確立されたルール、長期の関係性の中で機能する。

 もう一つは「雑草コマ」だ。高流動性環境への最適化。環境が変わっても、相手が変わっても、ルールが変わっても機能する。外部適応型、社会外部で生きる力を持つ。

 この二つの違いは、能力の優劣ではない。「どの環境へ最適化されたか」という流動性範囲の差だ。温室コマは温室の中では卓越している。問題は、温室が消えた時に何が残るかだ。

 一点、誤読を防いでおきたい。雑草コマは自由人ではない。高流動性環境への適応者だ。強いのではなく、強くなるしかなかった者だ。ここを間違えると、雑草礼賛・温室否定という単純な論になる。しかしこのシリーズが言いたいのはそうではない。どちらも「環境への適応」であり、問題は環境が変わった時に何が残るか、だ。

● 雑草とは何か――ユダヤ史から見えるもの

 ここで「雑草」の定義を問い直したい。

 雑草とは、単に生命力が強い植物ではない。本来生える場所を与えられなかった植物である。土がない。守られた庭もない。コンクリートの隙間からでも生えるしかない。だから硬くなる。広がる。時には毒を持つ。

 私は最近、ディアスポラ期ユダヤ史を読みながら、そのことを考えた。土地を持てない。いつ移動させられるか分からない。財産を固定できない。家も職も、明日には消えるかもしれない。そういう環境では、「持ち運べる能力」へ進化圧力が集中する。知識、金融、人的ネットワーク。土地に紐づかない、身体と頭の中にしか存在しない資産だ。これは民族優秀論ではない。環境適応論である。

 私が各国を歩いて感じた「生存の匂い」の正体は、おそらくこれだ。韓国の生存競争、中国の流動性、中東の不安定性。それらは苦難であると同時に、「持ち運べる能力」を育てる圧力でもあった。強いから雑草なのではない。強くなるしかない環境に置かれたから、雑草になった。

● 温室コマの本質を照らし出す

 この視点は二つの意味で重要だ。

 一つは「雑草礼賛」への誤読を防ぐことだ。雑草は強者ではない。追い詰められた適応者だ。韓国の若者競争地獄も、中国の生存圧力も、美しいものではない。しかし、その圧力が「持ち運べる能力」を育てた。

 もう一つは「温室コマ」の本質を照らし出すことだ。温室コマは、温室という土台があって初めて機能する。会社が消える、終身雇用が崩れる、AIが職能を削る。土台が消えた時、持ち運べるものが何も残らない。

 シリーズ(14)で論じた「思考停止は生存戦略だった」という話と、ここは完全に接続する。温室コマとして最適化された人間が「考えなかった」のではない。温室の中では、考えなくても機能した。問題は、その温室が今、各所で壊れ始めていることだ。

● 日本が大量生産したのは、どちらのコマか

 日本は高度成長期、世界最高水準の「温室コマ」を大量生産した。均質、勤勉、正確、従順、長期雇用に耐える。このコマは、安定した工業生産と官僚行政において、驚異的な成果を上げた。

 しかし環境が変わった。グローバル競争、AI、人口減少、産業構造の転換。温室の外気が、内部へ吹き込み始めた。温室コマは、その外気に対して脆い。なぜなら、外気耐性を育てる必要がなかった環境で最適化されたからだ。

 韓国、中国、中東で私が見たのは、雑草圧力の中で持ち運べる能力を育てた人間たちだった。シンガポールはやや異なる。あれは「国家管理型の合理性」であり、雑草とは少し異質だ。しかし共通するのは、温室なしで機能する設計になっていることだ。彼らが特別に優秀なのではない。温室を持てなかった、あるいは持たない環境が、持ち運べる能力を育てた。日本が今直面しているのは、「温室コマ vs 雑草コマ」という競争ではない。「温室そのものの消滅」という構造変化だ。

 ここで一点、明確にしておきたい。このシリーズは、人種論でも民族優劣論でもない。中国人がどうだ、韓国人がこうだ、日本人はといった話をしているのではない。同じ日本人でも、雑草的環境に置かれれば雑草になる。同じ中国人でも、温室に入れば温室コマになる。人間は環境に適応する。それだけの話だ。

 問題は人種ではない。どの環境へ、どのように最適化されたか、だ。さらに、問題は、人間がコマになったことでもない。どのコマになったか、だ。

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