日本温室の旅(21)~温室コマはなぜ資本を持てないのか、年収社会の罠

<前回>

● 遠心力を失った人間が行き着く場所

 前回(20)の最後にこう書いた。「遠心力を失った人間は、資本を持つことも難しい。なぜなら資本とは、他人の評価ではなく、市場との交換によって蓄積されるものだからだ。会社の中でしか価値を持たない人間は、給与は得られても資本は作れない」と。

 今回はその論を経済構造として解剖する。温室コマが資本を持てない理由は、個人の怠慢でも無知でもない。年収信仰・消費装置・税制非対称という三つの構造が、資本形成を阻んでいるからだ。

● 年収信仰という労働宗教

 戦後の日本教育は、労働を「道徳的価値」として教えた。努力し続けること自体が善とされ、結果ではなくプロセスが崇拝された。「頑張ること」が美しく、「休むこと」が後ろめたく、「稼ぐこと」が人生の証明になった。

 この刷り込みには、経済的な機能がある。「年収」を追わせることで、人々を永続的な賃金労働者に留め置けるからだ。「資産」という概念が、視野から消える。就職、結婚、住宅ローン、社会的地位。あらゆる場面で「年収はいくらか」が問われる。「資産はいくらか」は問われない。

 しかし年収と資産は、全く別のものだ。年収とは「労働力の売却によって得られる収入」であり、資本ではない。資本とは、自己の労働によらずとも収益を生む仕組みだ。株式、不動産、事業、知的財産。これらは働かなくても価値を生み続ける。

 日本では「年収こそが成功の証」とされる。だから人々の関心は資本の蓄積ではなく、より高い年収の追求に向かう。そしてここに深刻な皮肉がある。年収の高さを誇る者ほど、実は資本の支配から最も遠ざかっているのだ。高年収者ほど時間とエネルギーを仕事に拘束され、資本の形成や運用に割く余力を奪われている。

● 「努力は必ず報われる」という非論理的な理論

 この「労働=美徳」という信仰の起源を辿ると、西洋宗教思想まで遡れる。社会学者マックス・ヴェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で、16世紀のピューリタン思想が近代資本主義の精神を生んだと論じた。

 その核心はこうだ。「労働は禁欲の手段である」。人は神から天職を与えられ、その職業労働を忠実に果たすことが神への奉仕だ。「人は労働するために生きているのだ」。富を稼いでも贅沢はならない。消費せず、再投資する。この禁欲的労働倫理が、資本主義の原動力になった。

 しかし重要なのはその次だ。ヴェーバーが論じた「予定説」がある。救われる者は神によって予め決められており、現世の行いで変えられない。だから人間は「自分が選ばれているかもしれない」という不確実な希望の中で、ただひたすら努力する。結果が保障されていないからこそ、努力する。これが資本主義の原点だ。

 戦後日本では、高度経済成長と終身雇用という二つの外部条件が偶然揃った。その結果、「努力は必ず報われる」という非論理的な理論が奇跡的に成立した。しかしこれは普遍的真理ではない。特殊な時代・制度が生んだ幻想だった。その幻想の中で、「年収を追う勤勉」が美徳として固定された。

 終身雇用が崩れ、外部条件が消えた今、「努力は必ず報われる」は通用しない。問われるのは、どの方向へ努力するか、だ。年収という指標を追う努力か、資本を作る努力か。

● 労働者は資産を削って消費する、資本家は消費して資産を増やす

 この非対称を、税制の構造から見るとさらに鮮明になる。

 労働者はまず働いて所得を得る。そこから税を天引きされ、残った可処分所得の範囲内で消費を行う。「消費するために納税している」。納税が先、消費は後だ。

 一方、資本家は仕組みが逆だ。法人や個人事業体を通じて支出を「経費」として計上し、課税所得を圧縮する。高級車も、海外出張も、接待費も、全て「業務上必要な支出」として経費化される。「節税するために消費している」。消費が先、納税は後だ。

 この構造において、「消費」という行為そのものが、労働者には「個人の支出」であり、資本家には「事業の戦略」なのだ。表面的には同じ消費行動に見えても、税制上・制度上、全く異なる経済的意味を持つ。労働者は資産を削って消費する。資本家は消費の一部を事業投資へ転換できる。この非対称が、長期にわたって資本形成の格差を固定する。

 この非対称が、資本形成の格差を固定する。そして温室コマは、ほぼ例外なく「労働者」側の構造に置かれている。

● 温室コマと資本形成不能の接続

 シリーズ(17)(18)(19)で論じてきた人事権・賃金カーブ・退職金・出世モデルの崩壊。これらは全て「企業内部に留まることへのインセンティブ」だった。そのインセンティブ設計の帰結として、温室コマは資本を持てなくなる。なぜか。

 第一に、可処分所得の問題だ。賃金カーブの前期・中期は過少支払いだった。手元に残る金が少ない。資産形成の原資がない。

 第二に、時間の問題だ。終身雇用の枠組みでは、転勤・異動・残業・社内調整に時間を奪われる。資本の形成や運用を学び、実践する時間が確保できない。

 第三に、発想の問題だ。年収信仰に染まった人間は、「いかに稼ぐか」は考えるが「いかに資産を作るか」を考えない。金融リテラシーが育たない。投資を「怖いもの」「ギャンブル」として捉える文化が根強い。

 第四に、依存の問題だ。温室コマは企業という温室の中で生きてきた。退職金という「最後の資産」を定年まで待つ設計になっている。自ら資産を作る必要性を感じにくい環境に置かれてきた。こうして「給与は得られるが資本は作れない」という状態が固定される。遠心力を失った人間は、市場で自らの価値を交換できない。だから資産形成の機会も失う。

● 「貯金せよ」という洗脳と資本形成の阻害

 日本の金融教育は長年、「貯金せよ」「節約せよ」とだけ説いてきた。しかし貯金は資産形成ではない。貨幣の価値を眠らせる行為にすぎない。インフレ下では実質的に価値が目減りする。

 一方で、メディアと企業は「新しい」「限定」「今だけ」と煽り、消費行動を道徳化してきた。「自分へのご褒美」という言葉は、もはや最も巧妙な消費誘導語だ。頑張ったから買う。疲れたから買う。記念だから買う。消費に次々と正当化の言語が与えられる。

 労働で時間を奪い、消費で金を奪う。「労働→消費→労働」という永久運動が完成する。しかもこれは強制に見えず、自発的参加に見える。「もっと稼ぎたい」「もっと買いたい」という欲望が、構造の自己再生エネルギーになる。

 国家や企業が意図的にそう設計したとは限らない。しかし結果として、年収中心社会は資産形成よりも労働参加を促進する方向へ働いた。資産を持つ人間は選択肢を持つ。選択肢を持つ人間は依存度が下がる。依存度が下がれば、組織は統制しにくくなる。だから多くの組織は、無意識のうちに資産形成より労働参加を評価する傾向を持つ。

 帝王学が古来から説いてきた統治の原理が、ここでも静かに作動している。温室コマは、この構造の中で、一生を給与と貯金だけで過ごすよう誘導されてきた。

● AI時代、年収信仰の崩壊が始まる

 しかし今、その構造に亀裂が入り始めている。AIが労働を代替する時代、年収信仰はすでに過去の遺物になりつつある。知的労働の中核部分がAIによって担われるようになると、「より多く働く」ことによる年収上昇は限界を迎える。

 次の社会では、「労働しなくても尊厳を保つ」ための仕組みが必要になる。その仕組みとは、資本だ。自らの労働によらずとも収益を生む資産。これを持つ人間と持たない人間の差が、AI時代に決定的になる。

 しかし年収信仰に染まり、消費で使い切り、資本形成を学んでこなかった温室コマには、その準備がない。遠心力がないから市場で自らを価格化できない。資本がないから労働以外の収益源がない。AI時代の到来は、温室コマにとって最も残酷な形の外気暴露になるかもしれない。問題はAIではない。温室仕様のまま外へ出されることである。

 会社の中でしか価値を持たない人間は、給与は得られても資本は作れない。そして資本なき自由は、いずれ外気に晒される。

<次回>

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