日本人にありがちな論法、帰納法にもなっていない個別事例の化

 前編「弁護士が弁護士にならない理由、マレーシア華人の資格観と活用法」では、華人社会では資格を職業ではなく、事業や人生を有利に進めるための戦略的資産として活用する発想を紹介した。

 その投稿に対し、「医師がタクシー運転手をすれば固定客が付く」とのコメントが寄せられた。私は、医師資格とタクシー業務との間に継続的な相乗効果は認められず、論理が飛躍していると指摘した。すると今度は、「妻の出産時、運転手が医療知識を持っていたら安心だった」という自己体験が持ち出された。

 このやり取りを見て、改めて感じたことがある。

 日本人の議論でしばしば見られるのが、「自己体験の拡大化」である。

 人は誰でも、自分の成功体験や失敗体験を重視する。しかし、それはあくまでも一つの事例にすぎない。ところが、自分が価値を感じたことは誰にとっても価値がある、自分が損をしたことは社会全体の問題である、と無意識に一般論へ拡大してしまう。

 例えば、「妻の出産時、運転手が医療知識を持っていたら安心だった」という体験から、「医師タクシーには価値がある」という結論を導く論法である。確かに、その場面では医療知識が役立ったかもしれない。しかし、それはあくまで特殊な状況であり、タクシーというサービス全体の価値を説明するものではない。

 ここで起きているのは帰納法ではない。帰納法とは、多数の事例を集め、共通性を抽出し、一般法則を導く思考である。一方、このような論法は、一つの自己体験から直接一般論を導いているだけである。

 私はこれを「自己体験の拡大化」と呼んでいる。自己体験によって得られた価値、あるいは失われた価値を過剰に拡大し、そのまま社会全体に当てはめてしまう思考である。

 構造論を語っている相手に体験談で返す人、統計に対して「私の知り合いは違った」と反論する人も、同じ思考構造である。思考ではなく感覚が先にあり、その感覚を一般論へ拡大しているのである。

 自己体験は貴重な情報ではある。しかし、それは思考の出発点であって、結論ではない。一つの経験から世界全体を説明し始めた瞬間、論理は止まり、感想作文が始まる。

タグ: