日本企業のサラリーマン二人はレアアース密輸で中国で逮捕された。彼らはある意味で経済安保の犠牲者だ。経済安全保障という言葉を聞かない日はない。しかし、私は以前から一つの疑問を抱いている。
経済安全保障とは、乱暴に言えば、安全なサプライチェーンを構築し、維持することである。しかし、本当に問われるべきなのは、その次の問いだ。その安全を、いくらで買うのか。どこまで買えたか。サプライチェーンを多元化すれば、調達コストは上がる。在庫を積み増せば、資金回りは滞る。国内回帰すれば、人件費も設備投資も増える。そして物価は上がる。
企業は営利組織であり、消費者も経済人である。利益や価格を無視して「安全保障だから」と負担し続けることはできない。結局、その追加コストの相当部分は国家、国民が負担することになる。ここまではよい。問題は、そのコストを払った結果、日本の安全保障はどれだけ強化されたのか、という点である。
例えば、中国からの輸入依存を下げたとしよう。Aという重要物資については、中国が輸出を止めても対応できるようになったかもしれない。しかし、次はBであり、Cであり、Dである。重要物資は無数に存在する。つまり、個別案件をいくら積み上げても、総費用に対して、総合的な安全保障はどれだけ向上したのか。という問いは残る。
企業なら当然、この問いを発する。投資案件を一つずつ評価するだけでは不十分である。事業全体として、投下資本に対し、どれだけの成果を得たのかを測る。経済安全保障だけが、この常識から免れる理由はない。日本政府は「中国依存率が下がった」「調達先が増えた」「補助金を交付した」と説明する。しかし、それらは活動実績であって、政策効果そのものではない。
国民から見えるのは、物価上昇、企業負担、財政支出といった経済的不利益である。一方で、安全保障がどれだけ強くなったのかは見えない。
経済悪化は見える。しかし、安保強化は見えない。経済安全保障とは、安全という名の下で、どれだけの国民負担を求め、その結果、どれだけ安全になったのかを検証すべき政策である。その検証なくして、「経済安全保障」という言葉だけが独り歩きしているように思えてならない。政策実施の検証や総括、小括でもいいから、やってほしい。





