ハチ15歳生誕記念日、途切れない時間のなかで

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 2026年8月6日。ハチの15歳の生誕記念日を迎えた。ハチが眠る庭の墓前に、手作りの誕生日ケーキを供え、風船を飾り、家族みんなで15歳の誕生日を祝った。これは追悼の日ではない。ハチがこの世界に生まれてきたことを、これまでと同じように祝う誕生日なのである。

 人は、死を一つの「終了」として捉える。生まれた日から死んだ日まで一本の線を引き、そこで時間を閉じる。しかし、私たちにとって、虹の橋の向こうへ渡ったハチも、ゴン太も、ハナも、ラッキーもそのような閉じられた時間のなかにはいない。互いの間に物理的な距離の隔たりが生じたとしても、共に流れてきた時間そのものが消えるわけではない。あの子たちとの時間は、死によって断絶したのではなく、ただ存在のあり方を変えただけなのである。

 だから、ハチの15歳は存在する。生きていれば15歳だった、という仮定ではない。ハチが生まれて15年という時間が流れ、その15年のなかを、私たちは今も一緒に歩いている。時間の連続は、一刻たりとも途絶えたことがない。時計が進み続けるかぎり、私たちとあの子たちの時間もまた進み続ける。

 墓前にケーキを置き、蝋燭に火を灯す。手を合わせる。その行為もまた、私たちにとって単なる供養の形式ではない。手を合わせることは、物理的な世界と、目には見えなくなった世界とを接続する一つの象徴である。掌と掌を重ね、静かにハチを思う。その瞬間、不思議なほど鮮明に、あの子の体温が蘇る。時間の向こうからハチが戻ってくるのではない。ハチは最初から、ずっとここにいるのである。

 陽光が庭の緑を照らし、色とりどりの風船が木陰に揺れている。その下にハチの墓碑があり、さらに奥にはゴン太の墓碑がある。そこは死者だけの場所ではない。家族の時間が現在進行形で流れ続けている場所である。かつて庭を歩き、匂いを嗅ぎ、陽を浴び、家族と同じ時間を生きた子たちが、いまも別の姿で同じ庭にいる。

 ハチ、15歳の誕生日、おめでとう。今年もみんなで祝ったよ。そして来年も、16歳を祝おう。その次も、そのまた次も。私たちの時間は、これからも一緒に流れていく。物理的な距離など、その連続を断ち切ることはできない。

 手を合わせれば、あの温もりが伝わってくる。その瞬間、こちらと向こうという境界さえなくなる。また一緒になるのではない。私たちは、ずっと一緒なのである。

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