先ほど、『AIでは中国が自由主義、アメリカが統制国家になる』と題するコラムを書いた。「自由で開かれた世界」を掲げる米国がAIを少数企業の内部へ囲い込み、国家統制の中国がオープンウェイト型モデルを世界へ開放する。政治的自由と技術的自由が反転しているという論考である。
これに対して、ある読者から興味深いコメントをいただいた。中国のAI戦略は、国家主導の圧倒的な推進力、短期利益より長期的なエコシステム形成を優先する姿勢、「技術向善」という思想、そして「人類運命共同体」の現実化という四つの視点から捉えられるのではないか、という指摘である。この四点は、中国のAI開放戦略を理解するうえで重要である。ただし、前二者と後二者では、少し性質が異なる。
● 市場を消さず、市場の進行方向を決める国家
国家主導と長期的エコシステム形成は、中国型国家資本主義の実体である。これは、かつての社会主義的な計画経済とは違う。計画経済では、国家が何を、どれだけ、いくらで生産するかまで決め、市場を代替する。現在の中国では、国家が決めるのは個々の生産量ではなく、産業の方向、優先順位、基盤、標準、時間軸である。その方向へ政策、資本、大学、企業、地方政府を動員したうえで、企業同士には激しく競争させる。
構造を一言でいえば、国家が方向を決め、資本が速度をつくり、市場が勝者を選ぶ。国家は市場を消すのではなく、市場の進行方向を設計するのである。ここに国家資本主義の強みがある。資本主義の競争力と効率性を利用しながら、資本が国家や社会を支配するところまでは許さない。企業が目先の収益を守るために技術を囲い込もうとしても、国家は長期的な産業戦略に従って開放を促すことができる。短期利益を一部放棄してでも、利用者を増やし、エコシステムを形成し、世界標準を取るという統一計画を実行できる。
これに対して、民主主義と資本主義を組み合わせた国家では、資本を抑制すべき政治そのものが資本に依存している。選挙資金、雇用、株価、年金、税収、メディア、ロビー活動が大企業や金融市場と結びつき、政治が企業の短期利益を制限しようとすれば、資本側から強い反撃を受ける。政府が長期的な社会利益のために資本主義の行き過ぎを修正する制度は存在していても、通常の政治過程では起動しにくい。
米国のAI企業が最先端モデルを囲い込み、利用者にAPIとして能力を貸し出し、競合モデルの開発を規約で禁止するのは、この構造の表れである。企業にとって合理的なのは、自社技術を公共的基盤にすることではなく、希少性を維持して超過利益を回収することだからだ。資本主義の暴走を政治権力が抑える中国と、資本の論理が国家の政策形成に深く入り込む米国では、同じ資本主義でも長期戦略の立て方が異なる。
さらに中国型国家資本主義では、民間企業が生み出した財やサービスであっても、それが社会基盤となり、公共財としての性質を帯び、国益を優先する国家戦略にかかわれば、国家統制の対象となる。ここでは、私有財産を全面的に否定するのではなく、所有権と社会的支配権を切り離す処理が行われる。
企業には所有と利益獲得を認める一方、データ、通信、決済、プラットフォーム、AIなど、社会全体の生産能力や情報流通を左右する部分については、企業による完全な私物化を許さない。所有は企業に残しても、その用途、開放範囲、価格、標準、社会的還元の方向は国家が統制する。
私有財産のうち、公共性と国家戦略性を帯びた機能だけを切り離し、国家の統制下へ戻すのである。この仕組みによって中国は、民間企業の創造力と利潤動機を維持しながら、社会基盤が一企業の超過利益の源泉として独占されることを抑えることができる。
● 善を装うのではなく、善を実行して覇権へ換える
一方、「技術向善」と「人類運命共同体」は、中国の覇権形成に都合のよい衣装という側面を持つ。中国がAIを世界へ開放するのは、純粋な慈善事業ではない。中国モデルの利用者を増やし、その上にアプリ、業務システム、クラウド、半導体、データ規格、教育体系を形成し、次の世界を中国の技術基盤の上で動かすことが目的である。
しかし、覇権の衣装だからといって、そこに含まれる「善」まで否定することはできない。派手な舞台に登壇して巨額の寄付を発表する資本家を考えればよい。寄付には売名、自己美化、社会的地位の獲得という目的が含まれている。それでも、その資金によって病院が建ち、奨学金が提供され、救済される人が生まれる。売名であることは、実質的な社会貢献を消去しない。
中国のAI開放も同じである。中国は自国の評価と影響力を高めるために、高性能AIを低価格または無償で世界へ配る。だが、その結果として、グローバルサウスの国家、中小企業、大学、個人開発者が、従来なら米国巨大企業から高額で借りるしかなかったAIという生産手段を、自ら保有し、改造し、実装できるようになる。この実益は、背後にある国家戦略を暴いただけでは否定できない。
むしろ中国の巧みさは、「善か覇権か」を二者択一にしない点にある。善を実行するから評価される。利益を配るから利用者が集まる。利用者が集まるから標準が生まれる。標準を握るから覇権が成立する。中国は善を装って覇権を取るだけではない。実際に善を供給し、それを覇権へ換えようとしているのである。
● 民主主義を強要する米国、AI民主主義を市場に委ねる中国
この方法自体、西側民主主義からの学習と見ることができる。米国は長年、「自由」「民主主義」「人権」という、正面から否定しにくい普遍的な善を掲げ、自国中心の世界秩序を正当化してきた。自由貿易、国際機関、ドル決済、インターネット、大学教育を世界へ提供し、参加者に利益を配りながら米国標準を定着させた。国益と公共善を結合し、善によって覇権を正当化する手法である。
しかし、米国は民主主義を一つの選択肢として提示したのではない。民主主義を人類普遍の絶対善と位置づけ、「民主主義対権威主義」という対立と闘争の構図をつくった。民主主義を選ばない国家は、異なる制度を選択した国家ではなく、自由、人権、進歩に反する側へ分類される。米国型秩序への参加は、制度と価値観の選択を伴い、従わない国には制裁、排除、封鎖、時には体制転換まで加えられてきた。そこには市場による選択よりも、イデオロギーによる善の強要がある。
中国が学んだのは、選挙や政権交代という民主主義の制度ではない。「技術向善」「共同発展」「人類運命共同体」という普遍的価値を掲げ、中国主導の秩序を中国だけの利益ではなく、人類全体の利益として提示する正当化の技術である。ただし、中国は米国の方法をそのまま模倣していない。中国が事実上提唱する「AI民主主義」は、米国型の閉鎖モデルを悪として禁止するものでも、米国企業にモデルの開放を強要するものでもない。米国企業が技術を囲い込み、高額なAPIとして提供し、利用範囲を規約で管理する自由も、そのまま認めている。
そのうえで中国は、低価格または無償のオープンウェイト型モデルという別の選択肢を市場へ差し出す。どちらを使うかは、各国、企業、大学、技術者に選ばせればよい。米国型の閉鎖モデルが価格、性能、利便性、安全性で優れているなら、利用者はそれを選ぶ。中国型の開放モデルが保有、改造、実装、コストの面で優れているなら、利用者はそちらを選ぶ。中国は米国型を思想的に否定するのではなく、競争可能な代替物を提供し、優劣の判断を市場へ委ねているのである。
ここに、米中の決定的な違いがある。米国は自らの制度を絶対善として提示し、世界に価値観の選択を迫る。中国は自らの技術基盤を提供し、どちらが社会に利益をもたらすかを利用者に選ばせる。米国が「民主主義を選ばなければならない」と迫るのに対し、中国は「中国モデルを使った方が得だと思えば使えばよい」と市場へ委ねる。政治体制としては米国の方が民主主義でありながら、世界への普及方法は中国の方が選択的であり、競争的であり、皮肉にも民主主義的である。
同時に、中国は資本主義から競争によって成長する技術を学んだ。企業の利潤動機を否定せず、市場競争を成長の動力として使う一方、資本に国家の方向を決めさせない。中国は、民主主義から善によって覇権を正当化する技術を学び、資本主義から競争によって成長する技術を学んだ。しかし、民主主義にも資本主義にも国家の主導権を渡さなかった。それだけでなく、西側の民主主義を、制度の強要から市場による選択へと転換し、より洗練された覇権形成の方法につくり替えたのである。
Kimi K3をはじめとする中国のオープンAI戦略は、この統治構造が技術領域で姿を現したものといえる。米国は技術を囲って利益を取り、その閉鎖性を知的財産と安全保障の論理で守る。中国は技術を配って参加者を増やし、参加者の選択を通じて標準を取る。世界基準をつくるのは、最も高性能な技術とは限らない。最も広く使われ、最も多く改良され、最も多くの企業と国家が依存する技術である。
中国型国家資本主義がAIを公共財に近い形で世界へ配り続けるなら、その「善」は中国標準を生み、中国標準は新しい覇権の土台になる。しかも、その覇権は「中国に従え」という強要によってではなく、「使った方が得である」という市場参加者の選択によって形成される。善の裏に覇権が隠されているのではない。善を実行し、その価値を市場に選ばせること自体が、覇権を獲得する方法なのである。





