言論自由の腐敗――議論障害症候群、日本人の日本語はなぜ通じなくなったのか

● 日本人の日本語も通じない

 SNSで一部の読者との一連のやり取りを追って、私は少し考えを変えた。

 最初は、単純な概念の混同だと思っていた。「主権」と「統治権」を取り違え、「思想」と「立場」を取り違え、さらにその誤りを指摘すると「意見が違って当然」と返ってくる。ちょっと待ってよ、「概念」と「意見」も異なる概念ではないか。

 しかし、混同が一つならまだしも、指摘するたびに別の概念を持ち出して混同を重ね、最後には何もかも「意見」「価値観」「人それぞれ」に収納されてしまうのを見ていると、これは知識量だけの問題ではないように思えてきた。

 最近、私は何度か「日本人の日本語が問題ではないか」と書いてきた。外国人の日本語能力の話ではない。日本語を母語として育ち、日本語で学校教育を受け、日本語で仕事をし、日本語で政治を語っている日本人同士なのに、同じ日本語を使って議論が成立しないという話である。

 日本語の単語は残っている。しかし、その中身を区切る境界線が消え始めているのではないか。同じ「日本語」という通信回線を使っていても、送信側と受信側で辞書が違う。しかも、その辞書を照合しようとすると、「人それぞれですから」と返ってくる。こうなると通信障害ではない。仕様である。

 「主権」と「統治権」は違います。「それはあなたの意見でしょう」。「思想」と「立場」も違います。「価値観は人それぞれです」。「いや、価値観ではなく、言葉の意味の話です」。「政治の真実は誰にも分かりません」。日本語で話しているのに、日本語の意味を確認しようとすると議論が終了する。

● 日本語が記号になる、そして言語ゴミによる言論空間の汚染

 ここから、もう少し大きな仮説が浮かぶ。民主主義は、人間を平等にした。身分や家柄によって発言権が決まる社会を壊し、誰にでも政治について語る権利を与えた。これは大きな進歩である。しかし、その平等原理がどこかで横滑りし、「人間は平等である」から「発言する権利も平等である」へ、さらに「発言された内容も平等である」へと移ってはいないだろうか。

 ここには重大な飛躍がある。一人一票は、一人一真実ではない。人間の尊厳が平等であることと、その人が発した命題の真偽、論理性、説明力が平等であることには、何の関係もない。民主主義は人間の政治的権利を平等化する制度であって、事実、論理、概念まで平等化する制度ではない。

 ところが、その境界が曖昧になると、「あなたの事実認識は間違っている」という指摘が「私の意見を否定した」に変換され、「その概念の使い方は違う」という指摘が「価値観を押し付けられた」に変換される。そこで登場するのが、「意見」という巨大な収納箱である。事実認識も、価値判断も、政治的立場も、概念の定義も放り込み、箱がいっぱいになれば「価値観」という別の箱へ移し、それでも収まらなければ「人それぞれ」という倉庫へ送ればよい。

 これなら捨てるものは何もない。誤りさえリサイクルできる。私は、事実、推論、価値判断、思想、立場といった、本来異なる階層にあるものが同じ高さに並べられる現象を、「概念のレベル化」と呼んでみたい。レベル化が進むと、言葉は意味を運ぶ道具ではなく、自分がどちら側にいるかを示す記号になる。

 「民主主義」と言えば善い側、「独裁」と言えば悪い側、「人権」と言えば善い側。「中国」という単語が出れば、それだけで親中か反中かの判定が始まる。「主権」が何を意味するかより、その単語を誰が使ったかのほうが重要になる。日本語は説明の道具から陣営識別票へ変わり、Whatを確認する前にWhoを判定する。「その言葉はどういう意味ですか」と考えるより、「お前はどちら側だ」と判定したほうが早い。

 概念を理解するには時間がかかる。資料を読み、自分の理解が間違っている可能性まで引き受けなければならない。それに対して、人物や言葉にラベルを貼るコストは圧倒的に安い。「差別」「多様性」「民主主義」「自由」「人権」「主権」。大きな言葉ほど便利である。意味を精査しなくても、まるで宅配便の送り状のように、「善」「悪」「右」「左」「中国寄り」「反中国」と配送先だけ決めればよい。日本人の日本語が単に貧しくなったというより、日本語が記号化したと考えたほうが近い。

● 長文を読まない、コンテクストを読まない

 この記号化を加速させているもう一つの要因が、長い文章そのものを嫌う傾向ではないかと思う。

 長文を読むにはコストがかかる。前後の文章を保持し、筆者が何を前提にし、どこまでを事実として、どこからを推論として、最終的に何を言おうとしているのか、コンテクストを読み解かなければならない。ところがSNSでは、その処理を省略しても発言できる。文章全体を読まず、「中国」「民主主義」「統一」「侵略」といった単語だけを拾えば、即座に反応できるからである。

 すると、文章は意味の連続体として読まれなくなる。短文、見出し、刺激的な単語、善悪を示す符号だけが切り取られ、それに反応する。これは単なる「長文嫌い」ではない。コンテクストを処理するコストの回避である。前後を読めば意味が限定される言葉も、一語だけ抜けば好きな意味を載せられる。しかも、文章を読み解いてから書くより、符号を見て脊髄反射で書くほうが圧倒的に速い。

 ここのところ、SNSの書き込みを観察していて、よく考えてから書く人と、脊髄反射で書く人がかなり明瞭に分かれた。前者は賛否にかかわらず元の論点を保持して返してくるので、議論から新しい論点が生まれる。後者は特定の単語を見た時点で回答がほぼ完成している。文章を読んで結論を出すのではなく、符号に反応して結論を出し、その後から理由を調達するのである。

 そう考えると、最近観察してきた
 ① 論点すり替え、
 ② 事実誤認、
 ③ 概念混同、
 ④ 人格攻撃

 という議論障害症候群の四大症状ともつながってくる。コンテクストを読まずに結論を出せば論点を外しやすく、結論を正当化するために都合のよい事実を拾い、言葉が邪魔になれば概念を動かし、それでも処理できなくなれば人物を攻撃する。

 四大症状は、それぞれ独立した現象というより、考えてから反応するコストを省くことで発生する症状なのかもしれない。

● ミス訂正しない日本人、垂れ流し言論権の暴走

 もう一つ、この一連のやり取りで目立ったのが、言論上のミスを訂正しないことである。私が指摘した多くのミスや問題に対して、発言者は反論できなくなると最終的に沈黙する。勇気をもって間違いを認め、訂正する人は、100人中に2~3人いるかどうかという状況である。

 言論の自由という権利の向こうには、責任と義務がある。しかし、人間にはコストを回避する傾向がある。問題は人間そのものというより、それを無原則に容認してしまう民主主義制度の側にもある。

 民主主義制度では、誰にでも発言する自由が保障されている。ところが、その発言に使った概念を説明する、事実と価値判断を区別する、根拠を示す、反論に答える、間違えたら訂正するという負担は、対等に課されていない。ここに権利と責任の社会的な非対称性がある。

 現実の世界では、言葉を間違えればコストが発生する。契約書で用語を取り違えれば紛争になり、裁判で論点を取り違えれば負ける。経営者が市場を読み違えれば赤字になり、研究者が概念を曖昧に扱えば論文が通らない。現実には、言葉にも淘汰圧がある。

 ところが、民主主義のSNS温室では事情が違う。事実を間違えても「私の見解」、概念を間違えても「あなたとは価値観が違う」、論理が破綻しても「人それぞれ」、完全に行き詰まったら「真実は誰にも分からない」で逃げられる。下水道すら整備しない、言論垂れ流しの民主主義社会。これでは、概念を正確に使う方向へ進化するより、間違っても責任を負わなくて済む話法へ適応するほうが合理的である。温室の生物は、その環境に最適化する。

● 母国語の退廃、思想ラベルの濫用

 「私はそう思います」と言えば事実性の検証を一段下げられ、「価値観の違いです」と言えば論理的な比較から降りられ、「人それぞれ」と言えば概念の定義そのものを不要にできる。日本語を正確に勉強するより、日本語を曖昧に使うほうが低コストになる。ここに私は、最近感じていた「日本人の日本語が問題だ」という現象の一つの説明を見つけた気がする。

 少数意見は守られる。しかし、誤った概念まで少数者の権利として保護されるわけではない。この区別が消えると、「私は自由に話せる」という民主主義の成果だけが残り、「私が何を話しているのかを説明する」という責任が消えていく。その結果、誰もが話し、誰もが意見を持ち、誰もが発信できるのに、同じ日本語を使う者同士で話が通じなくなる。ずいぶん豊かな言論空間である。

 私は、こうした人たちを「異類」と呼んでいる。思考回路OSが違うからである。OSに上下の位置はない。その優劣をどう判断するかは、それこそ人それぞれの価値観でよい。

 民主主義という温室は、ついに日本人から日本語を奪ったのかもしれない。

<次回>

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