● 法の上にあるもの、法の下にあるもの
ICC赤根氏への制裁問題を見ていると、私は彼女に、法律家というより政治家的な匂いを感じる。高市政権が「残念」と表明したこと自体は妥当だろう。これに対して単純に「法を守るICC」と「法を無視する米国やロシア」という構図だけで語る人には、法の管轄、国際政治、さらにその背後にある損得計算への理解が浅いように思える。
ICC側の論理は、「ローマ規程と領域管轄によって、非締約国国民にも管轄権を行使できる」というものである。一方、米国やロシア側からすれば、「われわれはICCの管轄を受諾していない。なぜお前たちがわれわれの政府高官を裁けるのか」となる。つまり、これは単なる「法 vs 無法」ではない。ICCの管轄権を非締約国へどこまで及ぼせるのかという国際刑事法上の根本的対立と、大国による実力行使が正面衝突しているのである。

そして皮肉なのは、ICCにはプーチン氏を自力で逮捕する警察力がない一方、米国には赤根氏を国際金融システムから実際に排除する力があることである。ICCの逮捕状には法的機能だけでなく、政治的、象徴的なパフォーマンス機能がある。しかし、それを実際に執行するには国家の警察力、軍事力、金融力、外交力が必要になる。
私の持論でもある。国際法、あるいは国際社会における法の執行は、国際政治の一環に過ぎない。上部構造としての法の下には、権力、軍事力、経済力という下部構造がある。それだけのことである。
● 制裁は罰か、それとも勲章か
ここから損益計算をしてみよう。赤根氏が制裁を事前に予測していたとすれば、損失を軽減する準備だけでなく、制裁によって得られる利益まで含めた計算が可能になる。
損失側には、米国内資産の凍結、ドル決済や米国金融システムへのアクセス制限、渡航や取引上の不便、第三国金融機関による過剰遵守などがある。しかし、制裁を予測できれば、合法的な範囲で米国経済への依存をあらかじめ小さくし、許可制度を確認するなどして、実効コストを圧縮する余地がある。
一方、利益側も小さくない。ICC所長として米国から制裁を受ければ、国際的知名度は一気に高まる。まさに現状である。「大国の圧力にも屈しなかった司法官」という評価が形成されれば、名誉、社会的承認、国際司法界での存在感、退任後の大学、国際機関、講演、出版など、将来のキャリア価値へ転換される可能性がある。本人に使命感があるなら、「自らの信念を貫いた」という心理的効用まで利益に入る。
したがって、制裁の損益は「米国から制裁されたから損」で終わらない。名目制裁コストから、事前に回避・軽減できた部分と、制裁によって得られる非金銭的・将来的利益を差し引いたものが、本人の実際の純コストになる。
制裁する側が100のコストを課したつもりでも、相手が事前準備によって実害を30まで圧縮し、その一方で「大国の圧力に屈しなかった司法官」という評価から100の価値を得たとすれば、30の損失に対して100の利益、純利益は70になる。もちろん、これは赤根氏本人について確認された事実ではなく、合理的行動モデルとしての仮説にすぎない。しかし重要なのは、制裁する側が設定した「罰の大きさ」と、制裁される側が実際に負担する「純コスト」は同じではないということである。
場合によっては、純コストがゼロになるだけではなく、利益が損失を上回る。そうなれば制裁は、罰として十分に機能していない。制裁する側がコストを課したつもりで、制裁される側に勲章を授与しているという、なかなか皮肉な現象まで起こり得る。
● 「私が死んでも、裁判官の代わりはいる」の損得勘定
赤根氏の「私が死んでも、裁判官の代わりはいる」という発言も、損得勘定から見ると非常に強い。自分を交換可能な裁判官と位置づけることで、暗殺してもICCは止まらないと示し、標的としての価値を下げている。「私を殺しても得しないよ」という潜在的なメッセージであり、暗殺の採算を悪化させる。
同時に、死を覚悟して職務を遂行する人物として英雄化されれば、本人の道徳的権威、職業倫理的地位、そしてICCの正当性は高まる。注目が高まるほど、暗殺した側が負う政治的費用も大きくなる。
暗殺側国家には、ICC関係者を威嚇し、組織を萎縮させるという限定的な利益がある。しかし、赤根氏を殺しても逮捕状も捜査も消えず、後任が職務を引き継ぐ。その一方で、国際的非難、追加制裁、外交的孤立を招き、赤根氏を殉教者にしてICCの結束と権威をかえって強める可能性がある。
つまり、赤根氏側からすれば、自分が暗殺されてもICCは存続し、本人は殉教者として英雄化される。暗殺側は目的を達成できないまま、大きな政治的損失を負う。だからこそ、この発言は、その損得の非対称性を公言することで、暗殺抑止効果をさらに強めるメッセージになる。
● 暗殺の期待損失と英雄化の期待利益
具体化すると、損益構造はさらに見えやすい。AIによる試算として、赤根氏が今後数年間に実際に暗殺される確率を1%未満、おそらく0.1%前後と仮定する。一般人よりは高いが、厳重な警備と暗殺側の採算の悪さを考えれば、現実化する可能性は低いというモデルである。
仮に生命喪失の損失を100と置けば、期待損失は「0.1%×100=0.1」となる。これに警備、移動制限、本人と家族の精神的負担を加えれば、現実のリスクコストを1~3程度と置くことができる。
一方、英雄化の利益は、暗殺されなくてもすでに発生している。「死を覚悟して法を守る裁判官」という評価、知名度、道徳的権威、ICCの正当性強化であり、その発生確率はほぼ100%である。象徴的利益を10~20と置けば、低確率の生命リスクと日常生活上の負担を大きく上回る。
もし実際に暗殺されれば、本人自身はその利益を享受できない。しかし、殉教者化による利益はICC、遺族、出版社、支持者などへ移転し、象徴的価値は50~100まで跳ね上がるかもしれない。
暗殺側国家は逆である。得られる利益は一時的な業務妨害と関係者への威嚇であり、仮に5~10と置く。逮捕状もICCも消えないため、実務的成果は小さい。これに対して、国際的非難、追加制裁、外交的孤立、捜査網の強化、赤根氏の殉教者化、ICCの結束強化という損失を50~100と置けば、まったく採算が合わない。
数字そのものは仮定である。しかし構造は単純だ。赤根氏は低確率の生命リスクと一定の生活上の負担で、ほぼ確実な英雄化利益と暗殺抑止効果を得る。一方、暗殺側国家は、わずかな威嚇効果のために、その何倍もの政治的損失を負う。この非対称性こそが、「私が死んでも、裁判官の代わりはいる」という発言の合理性である。
● 正義にも利益があり、批判にも利益がある
世の中は、コストと利益、損得計算で成り立っている。可視か非可視か、金銭か非金銭か、直接か間接か、短期か中長期かを問わない。
「英雄、英雄」「正義、正義」と叫ぶ物語は、まずハリウッドに莫大な利益をもたらしてきた。そして、それを消費する大衆も、英雄への自己投影や、正義の側に立ったという心理的自己満足を利益として受け取っている。だからといって、その正義が偽物だという話ではない。正義と利益は両立する。使命感と名誉も両立する。法を守るという行為と、その結果として本人の評価が高まることも両立する。
むしろ面白いのは、正義と利益が同じ方向を向いた時である。本人は信念を貫きながら名誉を得る。組織は正当性を強める。支持者は正義の側に立つ心理的利益を得る。制裁する側は罰を与えたつもりで相手を英雄にしてしまう。暗殺を考える側は、相手を消すことで相手の象徴価値を最大化してしまう。
立花がこの記事を書くことにも利益がある。損得比較と心理分析の実例として、私のコンサルティング業務の教材に編入できるからである。この記事を読む読者にも利益がある。どこのメディアもあまり書かない視点を読むという希少価値と、損益構造を考える学習効果である。
あるいは、立花を「何でも損得で考える卑しい人物」と道徳的に裁き、自分を正義の側に置く心理的自己満足も、立派な利益である。
正義を語る者にも利益がある。正義を批判する者にも利益がある。制裁する者にも目的があり、制裁される者にも得るものがある。法廷の木槌を握る手と、その裁判官の財布や名誉や心理的効用は、別々の宇宙に存在しているわけではない。
正義と損得は、必ずしも敵同士ではない。時には、実に仲良く同じ方向を向いて歩いているのである。




