胡散臭い金融投資商品の勧誘、発信側と受信側のあり方

 不動産や金融投資の勧誘といえば、胡散臭い。そう直感して避ける人が多かろう。ないし広告それ自体にアレルギーを引き起こす人もいる世の中。なぜなら、騙されたという被害談が多いからだ。

 私が発起人であって管理者として主宰運営している「マレーシア移住の会」では、最近広告の投稿が増え、メンバーから問題提起や苦情が寄せられるようになった。通常なら、広告などの商業宣伝を全面禁止すればよいのだが、私はあえて禁止しないことにした。その理由をいう。

 「広告を含む情報提供それ自体が受け手に価値を提供し、また後日の取引成立等によって当事者全員に利益をもたらすものであれば、全体的有益性とみなし、これに関わる広告などの商業行為が大いに結構なもので、これを認めるべきだという考え方があるからだ。ただし、広告において不適表現や拡大宣伝、リスク隠ぺい等の問題が顕在、または潜在し、その有害性もしくは有害を来す危険性が認められた場合、当該広告の掲載を容認しない(是正や削除対象とする)」

 と私が基本的な姿勢を示し、広告を容認する方針の継続をアナウンスした。二つの意図が込められている。一つは広告側には、より客観的な事実に基づき、情報の非対称性(発信側と受信側の情報格差)を自ら低減し、無くす誠意と努力を示すべく、いわゆる透明性の高い「良き情報」の提供を求めること。もう一つは、受け手側には事実の追求、情報の峻別をはじめとする情報処理・分析力、論理的な判断力ないし自己防衛力の向上を求めること。

 このように情報の発信側と受信側のそれぞれの発信品質と受信能力の向上によって全体的価値の増加を期待する。

 たとえば冒頭で述べた金融投資の勧誘について、詐欺関連あるいはそれに近い被害事案が多いことから、金融庁が注意を喚起している。そこで、なんとなくその類の勧誘を「胡散臭い」と思えてしまう。決してすべての金融投資勧誘が詐欺ではないわけで、むしろ良質なものがそれで消費者に警戒されて、ある意味で間接的な「被害者」となるケースもあるだろう。

 発信側がもし客観的な事実を元に、利益と不利益両方のシナリオを提示し、リスクの説明を丁寧に行えば状況がずいぶん変わるのではないかと思う。

 コンサルタント業も同じで、「胡散臭い」職業になりやすい。私自身もコンサルタントを始めたころ、「君はどこの誰、何しにきたの」と疑いの視線を感じたのは一度や二度ではなかった。そこで絶対に性急な売り込みで押し付けない。先方の問題を解決したいという姿勢で傾聴に徹する。そして小さな仕事を少しずつ受け、日々情報を提供し信用と信頼を積み上げていくのである。何よりもリスクの説明、私は案件を引き受ける前に失敗のリスクを説明し、そのリスクが取れるのなら、案件を引き受けますと。

 投資の話に戻そう。私もよく金融系の投資勧誘を受ける。「これは儲かる」「二度とないチャンス」といわれたとき、「別に儲けたくない」と切り返す。すると、「儲けたくない人っていないんでしょう」としばしば驚かれる。そのとおり、それが正解だ。ただもう一つの本質を見失っている――。「儲けたいか儲けたくないか」の問題よりも、「儲け方」の問題だ。世の中、リスクなしで儲けられることはない。問題はどのくらいのリスクがあるのか、どのようなリスクか、最悪のシナリオとは何か、そしてその投資者にとって負担できるリスクとは何か・・・といった問題である。

 世の中は、投資商品が千万と転がっている。投資者は商品を見る以前に、まず売る人を見るわけだ。たとえ大手金融機関の投資商品なら信用できるかというと、それも考える余地がある。金融商品そのものの問題よりも、投資者への適合性の問題だ。担当者がノルマ達成、自分の業績のために巧妙な手口で売りつけることは皆無ではない。最終的に情報を集め、冷静に決断するのが投資者(消費者)本人以外の誰でもない。

 何も不動産や金融商品に限った話ではない。自己責任が問われる時代の消費者の有り方を再確認したい。
 

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コメント: 胡散臭い金融投資商品の勧誘、発信側と受信側のあり方

  1. サバイバル力の強化はドアに鍵をかけるだけの行為であるから、泥棒が隣の家に入ろうとお構いなし。こんな人ばかりで良き社会ができるでしょうか。

    「いじめに関して、傍観者も加害者と同列だ!」というのと「傍観者には罪がない」という考え方がありますが、サバイバル力のみに力を入れるということは後者の考え方と同じです。

    前者ほど極端ではなくても、傍観者にも罪があると考えいじめをなくす行為を促すのでなければ、良き社会の作り手とはならないと思います。

    立花先生は、フィリピン人のメイドさんを助けるという尊い行為をなさっています。これは自らの盃に満ちた高級なお酒のおこぼれを分けてやっている単なる慈善行為なのか。或は、あるべき正義が欠けているのを埋め合わせようという義務に駆られての行為なのか。

    私は後者であると考えます。また、ご自分の息子さん、娘さんにもそのした人間であって欲しいと育てていると思います。

    そうであるならば、ドアに鍵をかけることを教えるだけでは教育として不備であるのは自ずと明らかではないでしょうか?

    1. 板野さん、いささか論点がずれてきましたので、議論を辞めます。ぜひ、隣の人にも「鍵かけるよう」勧めてください。

  2. サバイバル力の強化とは、弱肉強食の是認に他なりません。弱肉強食の社会とはすなわちモラルなき社会です。

    その結果が、下記のような記事(ナッツ姫、妹の復讐)
    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141231-00000031-jij-kr

    民主主義は上記のような行為を防ぐ手段を制度的に持ち合わせていません。むしろ、中国のような、最近も令一族に対して行われているような、罪は九族に及ぶとされるシステムのほうが合理的と思われるほどです。中国ではモラルを前提としていないから、そのようなシステムが出来上がっているのでしょう。

    もし、民主主義もモラルを前提とできないなら、同様なシステムを取らざる得ないことになります。

    そうでない道を選ぶならば、サバイバル力の育成には同時にモラルの維持に対する強い意志・教育がなければならないでしょう。法の下でサバイバル力のみ磨く社会に未来はないと考えます。

    1.  「サバイバル力の強化とは、弱肉強食の是認に他なりません」というのなら、「ドアに鍵をかけるから、泥棒の窃盗を是認すること」になりますか。ちょっとロジックの逆転ではないでしょうか。

       私は職業観的にも人生観的にも「サバイバル力」を重要視しているのは、サバイバル力を放棄しても弱肉強食がどの社会にもなくならないからです。それから、弱肉強食は自然摂理であって、人間を含む動物生まれつきの本能であって、これは好き嫌いに関係なく存在し続けます。一方、モラルというのは倫理観道徳観に基づき、ある意味で欲望という本能と相克する部分さえ存在します。だからこそ、板野さんがおっしゃるように「強い意思」「教育」が必要だ。これは重要です。ただ「教育」さえすればすべての人において「強い意志」が形成されるという必然的帰結にならない以上、他力本願ほかなりません。

       残念ながら、私は経営コンサルタントとしてサバイバル担当の方であって、宗教家でも教育家でもない以上、モラル形成に関して深い研究をしていませんので、ご満足いただける答えを用意できません。要するに、泥棒にならないよう教育するよりも、破れない鍵を開発するのが私の仕事だからです。

  3. 自己責任が問われる時代。まったくその通りですね。「自己責任」が水戸黄門の印籠のように使われるようになって久しくなります。強者が弱者を食らい尽くすことを許すようになった時代とも言えます。

    大手サイトのYahoo Japan!等のトピックス等を見ていても、いわゆるニュースと宣伝受託生地を同列に並べています。一昔前の人が見たら、何が事実で何が宣伝なのか全く見分けがつかない。情報や精神面で弱いものは容易にひっかかってしまうようなものが堂々と表に出ている。無料で提供されているものだから何をやっていいということのようです。

    法的にやって良いものであれば、何をやってもいい。その他は自己責任だ!このような考えが基本にあります。しかし、このような考え方で作られた社会に未来はあるのでしょうか?このような社会で育てられた子供たちはどのような大人に育つのでしょうか?

    現在の社会を是としてその中で生きる術を伝えるということは社会の悪に加担しているだけではないのでしょうか?そんな疑問があります。

    1. 板野さん、ご提起の問題はより分かります。どの時代の社会も完璧ではありません。必ず問題があります。社会に生きる人としては対策は三つしかありません。①社会を変える。②自分を変える。③どっちも変えずに社会を批判し続ける。現世代にも次世代にも求められるのは、「サバイバル力」。サバイバルは悪の加担とは違います。善で生き抜いた人はたくさんいます。

       私は法律人、経営コンサルタントですが、「悪法も法なり」というのがあります。どんな悪い法律でも法律は法律でそれを破ることはできません。悪法を守りつつも、企業が生き残り、サバイバルしていく方法を見つけていくのが私の仕事です。人間も同じです。自分の不幸を社会のせいにして何も変わりません。自分を変えた方が早いと思いませんか。それが私が考える自己責任です。

       私の考え方はまだ日本社会で十分に受け入れられていないことを重々承知しています。迎合するつもりはありません。ただこの社会はいくら批判、非難されたからといって自分の希望する方向に変わってくれるわけではありません。罵って、呪って、そして頑張って強くなりましょう。頑張ったからといってよくなるとは限りませんが、罵って呪うだけでは絶対に良くならないことは確実です。そう思いませんか。

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